第五聯隊遭難始末

附 第三十一聯隊雪中行軍記 ― 全文書き起こし・現代語訳対比
原本:北辰日報編輯部 編、近松書店 発行、明治三十五年(1902年)増補四版 | 国立国会図書館デジタルコレクション pid/1083845
Ver. 1.1 | 2026-02-25

第五聯隊遭難始末

附 第三十一聯隊雪中行軍記

北辰日報編輯部 編  近松書店 發行  明治三十五年

国立国会図書館デジタルコレクション収録(pid/1083845)、増補四版。北辰日報(弘前の地方新聞社)編輯部による民間出版物。明治35年1月23日の遭難事件を事件直後に取材・編集して刊行した。

第五聯隊遭難始末

附録:第三十一聯隊雪中行軍記

北辰日報編輯部 編・近松書店 発行・明治三十五年(1902年)

本書は1902年(明治35年)1月23〜24日に発生した八甲田山雪中行軍遭難事件(第五聯隊第二大隊210名中199名凍死)を記録した民間出版物。事件発生直後に増補四版まで重版されたことが、当時の社会的衝撃の大きさを示している。

・ 旧字体・変体仮名・異体字は可能な限りそのまま転写し、判読困難な箇所は(●)で示した。

・ 各丁の区切りは「(p.N)」の形式で示す。

・ 見出し・段落区分は原典の布字・飾り罫に従った。

・ 〔 〕内は転写者注記。〈 〉内は原文の見出し・小見出し。

・ 原文縦書き、右から左の読み順を横書きに変換した。

・ 原文の旧字体・旧仮名遣いは現代表記に改めた。

・ 難読・判読不能箇所は〔●〕と表記し、訳注で補足した。

・ 尺貫法の数値にはセンチ・キロ換算を【訳注】に付した。

・ 〔 〕内は訳者による補足説明。

・ 各節末の「注」は重要箇所への歴史的補足注である。

緒 言

凍雲低ク垂レシ甲田山ヲ鎖シ、滿目 處只碍ヲ以テ遭ルニ到ルノ処、强勇ナル第五聯隊二百有余ノ猛士ガ雪中行ヲ試ミ、白々タルノ中ニ企ツ意氣壯ナリト謂フベシ。軍チ此處ニ於テ突然ナル寒風密雪ラ吹キ、奇寒劒ノ手足断ツニ。激變シテ各員ノ朧朦々タル、偶々天候ノ如ク退カンカ堆雪山ノ如ク崩ルル小圓ニ。裂カントス、敵ヲ空シク城ヲ守ラ無情雪裡ノ鬼トナリ、了ルル辺豊千秋ノ事ヲ嗟!


恨事ニアラズヤ。累々トシテ敵空シク城ヲ守ラ無情雪裡ノ鬼トナリ。


本書ハ則チ此ノ惨事ヲ詳記セルモノ、實ニ我社同人ノ纂。

        北辰日報編輯部

緒言は北辰日報編輯部による原書冒頭の序文。旧字体・旧仮名遣いを原文のまま転写。「賊もなく空しく城を守る」という表現は、戦う相手(敵)もなく、ただ自然の猛威に翻弄されて命を落とした無念さを表す文学的表現。

凍てついた雲が低く垂れ込め、八甲田山は厚い雪に閉ざされていた。見渡す限り、どこに向かっても険しい地形が立ちはだかる中、勇猛な第五聯隊の二百有余名の将兵が雪中行軍を試みた。白銀の世界に志を抱いて出立した姿は、まことに壮烈というほかはなかった。


しかし、ここに突然の寒風と密雪が吹き荒れ、奇寒は刀のように手足を断ち切るかのごとく、天候は急変した。各員の意識は朦朧とし始め、まるで退こうとすれば山のように積もった雪が崩れ落ちてくるようであった。賊はいないのに空しく城を守るがごとく、情け容赦のない雪の中で命を落とし、幾千秋の思いを残して逝った者たちのことを思えば——なんと痛ましく、嘆かわしいことではないか。


次々と戦友が倒れ、誰もが空しく雪原の鬼となっていった。本書は、この惨事の詳細を記録したものであり、まさに本社(北辰日報)同人一同が編纂したものである。

        北辰日報編輯部

北辰日報は弘前に本社を置いた地方紙。本書は事件発生直後に取材・編集し、増補を重ねながら刊行した。歩兵第五聯隊(昭和3年再版)とは別の民間出版物であり、現地紙の速報的視点を持つ一次資料として位置づけられる。

遭難地勢図(口絵地図)

遭難地勢圖(口絵地図)
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〔口絵として地図「遭難地勢圖」を掲載。青森湾を北に、甲田山を南に描いた行軍路概略図。青森市街より南へ向かい、練兵場・野内・新田・三本木・鶴ヶ坂・新城・篠田・幸畑・元湯を経て甲田山へ至る経路が点線で示されている。〕


輯ニ係ル筆硯勿忙固ト修飾ニ暇アラズ、要ハ曾タ事ヲ

靈クシ意ヲ達セント期セルノミ

靈ヲ喪ヒシ武夫ニ决スル胸ヲ守ルニ足ル況ンジャ二百有余ノ

趣ヲ一タル武夫ニ於テ、吾人ハ彼ノ蒼天ヲ望シタ此

惨ヲ痛ムヤ轉々切ナリ

        北辰日報編輯部

地図は実際には画像として掲載されており、本書き起こしでは概略を文字で説明している。行軍路は現在の国道103号線に近い道筋。青森から田茂木野・幸畑・元湯を経て八甲田山(入甲田山)への経路。

〔口絵として行軍路の概略図「遭難地勢図」を掲載。青森湾を北に、八甲田山を南に描き、青森市街から南へ向かって練兵場・野内・新田・三本木・鶴ヶ坂・新城・篠田・幸畑・元湯を経て八甲田山へ至る経路が点線で示されている。〕


編集の筆は勿論のこと、修飾に割く暇もなかった。大切なのは、あの惨事を後世に伝え、意を尽くすことのみである。

命を失った武夫〔勇士〕たちへの思いを胸に抱くには十分な心があろう。まして二百有余名の勇士たちのことを思えば、我々は蒼天を見上げながら、その惨事を深く悲しんでいる。

        北辰日報編輯部

第五聯隊遭難始末 本文

○ 甲田山地勢


今回當入仙閣第五聯隊、東京方ヘ途巡農ヲ去テ青蟲感)第二大隊カ無比ノ惨事ヲ演セル入甲田山ハ、青森縣第一ノ高峰ニシテ蕃前方ヘ稲々暖ヲ以テ、前山ト相互シタ南方ヲ浸々ヤルフ以テ前風ノ稲々暖ヲ


元楽菩薩ヨリ入甲田山ヘ一里餘ノ山道ニ偏道ノ険ヲリモ倒ホ難ナリト稍セラル。


嘗テ此處ニ靈驗アラタカナリトテ、狂ビタ山開キアリ綠アリ、遠ハバザル所ナリ。


鷹ヲ抱ヘテ此的ニ到スル者ハトモカクモ多クシテ、此日ヲ見テ山中ニ泊シモノモ稀ニテ、目ヲ察スベカラズル所ナリ。


元楽菩薩ヨリ入甲田山ヘ、唯一ノ難所トシテ稍セラル。

「入甲田山」は「八甲田山」の当時の表記。元楽菩薩は現在の酸ヶ湯温泉付近に近い地点。一里≒4km。

八甲田山の地形


今回、第五聯隊第二大隊が前代未聞の惨事を演じた八甲田山は、青森県第一の高峰である。その南方には前山と相対しており、南面は傾斜がなだらかに続く。


元湯〔元楽菩薩、現在の酸ヶ湯温泉付近〕から八甲田山への一里余り〔約4km〕の山道は、どんな険路と比べても難しいと評判の道であった。


かつてはこの山に霊験あらたかな神が宿るとして山開きが行われ、参詣者が多く訪れた地でもある。


鷹狩りに来る者も多く、山中に宿泊した者もあったが、一般の目には奥深い場所であった。元湯から八甲田山への道は、青森県でも有数の難所として知られていた。

八甲田山:青森県の山岳群。最高峰は大岳(1,585m)。遭難現場は主に田茂木野〜幸畑〜鳴沢付近。元湯(元楽菩薩)は現在の酸ヶ湯温泉(標高890m)の近くに位置する。

○ 行軍ノ目的ト豫行々軍


今回全隊カ雪中行ヲ目標ニ建設セレルハ、毎年雪中行軍ヲ隔テタル雪山裡電営ヨリ研究ニ此籠ニ於テ戰鬪意心ヲ錬磨スル軍方法ニ対スル研究ニ鑿意鍛煉ヤ行ヲ取ル必要アリ。


今回第五聯隊二大隊カ質疏局ニ関シ、中行軍二泊ヲ何ニスルカ幾何ニ遇ヘトモ然ラレ、到リシコトハナク常ニ各員ハ幸ニモ決シ居ルモノニシテ一泊行軍ヲ施行スルニ在リ。


 ○ 步兵大隊ッ以テ雪中ヲ習シ如何ニシテ三未木平野ニ出ヅルカ、又雪中ニ於クル大小行李編制

 (続)ハ如何ニシテ可ナルヤ。

 ◯ 踏雪ヲ以テ試験センカ爲メ十八日大尉神成。

 ◯ 二十名ノ先頭ヲ地方ニ試験カ積雪ヲ沙ヒタル物ヲ。

「三未木」は「三本木」(現在の十和田市方面)のこと。神成文吉大尉は事前踏査(1月18日)を行ったが、この踏査がのちの遭難経路の決定に影響した。

行軍の目的と予備行軍


今回の全隊による雪中行軍が計画された理由は、毎年雪山での訓練を通じて、戦闘意識を錬磨し、雪中戦の研究を行う必要があったからである。


第五聯隊第二大隊は、今回の行軍において一泊行軍を施行するにあたって、以下の研究課題を定めた。


 ・ 歩兵大隊をもって雪中行軍を行い、三本木平野へいかに出るか。また雪中における大行軍の方法はいかにあるべきか。

 ・ 踏雪の試験のため、1月18日に神成大尉が20名を率いて先行し、現地の積雪状況を調査した。

神成文吉大尉(第5中隊長)は1月18日に先行踏査を実施した。しかし踏査は好天の下で行われており、遭難当日のような暴風雪の状況とは条件が大きく異なっていた。このギャップが遭難の遠因の一つと分析される。

○ 第八師圓管下二於ケル各聯隊雪中行軍


今回雪中行軍は師圓管下各大隊連絡聯隊毎二又共レ等目ヲ客聯隊毎ニ積ムカ爲ニ聯隊各大隊毎二 1泊行軍を 2 泊行軍 3 泊行軍と研究シタ意見ヲ調介シテコレ鍛意心ヲ


行軍区域:

 ● 第五聯隊第二大隊カ三本木野ノ地方(田代迠)

 ● 第三聯隊第二大隊が田代迠

 ● 第三十一聯隊(弘前)が同時期に雪中行軍を実施


今回第五聯隊ニ大隊カ質疏局ノ経歴ニ有ス、中行軍ニ泊ヲ何ニスルカ幾何ニ到リ施行スルモノニ依ル

「師圓」は「師団」の旧字体表記。第八師団(弘前)管下の複数聯隊が同時期に雪中行軍を実施していた。第三十一聯隊(弘前)は同期間に成功裏に行軍を完了した(附録参照)。

第八師団管下各聯隊の雪中行軍


今回の雪中行軍は、師団管下の各聯隊が連絡を取りながら実施するものであり、各聯隊ごとに一泊・二泊・三泊行軍の研究を重ねていた。


各聯隊の行軍区域は次の通りである。


 ・ 第五聯隊第二大隊(青森):三本木野〔八甲田山麓〕方面、田代温泉を目的地とする一泊行軍

 ・ 第三十一聯隊〔弘前〕:同期間に弘前から八甲田山を経て行軍(成功)


以上のように各聯隊が雪中行軍の訓練・研究を同時期に実施していた。

この「同時期の並走実施」が本書の重要な対比ポイント。第五聯隊(青森発・北ルート)が210名中199名を失ったのに対し、第三十一聯隊(弘前発・南ルート)は全員無事に行軍を完了した。附録にその記録が収められている。

○ 第一大隊


山口大隊長ハ十六日出発ヲ定シ、而シテ行地形ニ北ヒ毫精鋭ノキノ如何ノ左ノ如ク到リタリ。

山口大隊長ニ召集セシ二十一日ヲ以テ直々ノ注意ヲ出セリ。ノ注意ヲ與ヘタリ。

今回行軍ハ地形ニ高ヒノ注意ヲ目的地ニ達シ得ヲ实ヘ保ッアルモノナリ。


行軍路:青森⇒田茂木野⇒田代温泉⇒甲田山(神成大尉ノ踏查)

所要日程:一月二十三日出発、二十四日に田代温泉に達シ、其処ニ一泊スルヲ計画。


行軍編成・兵力(p.8)


全行軍雪中行軍部隊ノ編成ト其編成ヲ目的ト研究センカ爲ニ出発セシ。

全聯隊総数ハ二百十名ニシテ各其編成ヲ記載セバ:


区分職階氏名
第5中隊長大尉神成文吉
中隊長中尉伊藤格明
第4小隊長中尉水野忠宜
中隊長全中尉大橋義信
小隊長少尉鈴木奥四郎

〔出身地別全名簿:青森縣・岩手縣・宮城縣・秋田縣・山形縣・東京府・佐賀縣・長野縣・熊本縣などの各出身者氏名が列記〕(原典 pp.9〜11)

山口少佐(大隊長)は山口鋠。「全中尉」「全大尉」とは特務曹長から昇進した准士官待遇の者。行軍総員210名は将校10名(軍医1名含む)+下士以下200名。

第一大隊の編成と山口大隊長の判断


山口大隊長は1月16日出発と定め、行軍路の地形に注意しながら以下の方針を立てた。

21日に全将校を召集し、直接の注意を与えた。今回の行軍は地形的に困難が予想されるが、目的地への到達を確実に保つことができると判断した。


行軍路:青森→田茂木野→田代温泉→八甲田山(神成大尉の踏査ルートに従う)

予定日程:1月23日出発、24日に田代温泉に到達して一泊、25日帰営の計画。


行軍編成・兵力:総員210名(将校10名・下士以下200名)


区分職階氏名
第5中隊長大尉神成文吉
中隊長中尉伊藤格明
第4小隊長中尉水野忠宜
中隊長准中尉大橋義信
小隊長少尉鈴木奥四郎

〔出身地別全名簿:青森・岩手・宮城・秋田・山形・東京・佐賀・長野・熊本などの出身者氏名が列記〕

山口鋠少佐(大隊長)は遭難後生還したが、重度の凍傷のため2月2日に死亡。神成文吉大尉(第5中隊長)は生還し、後藤伍長とともに救助活動の端緒をつくった。

○ 雪中行軍隊ノ編制及ビ部隊所属其他ノ如シ


雪中行軍隊ノ編制及ビ部隊所属ハ以上ノ如シ。而シテ食料ハ左ノ如シ:

 ● 村米ーニ付キ一組ニ附属ノ食料トシテ三十五貫目ヲ搭載スルコトヲ。一組畳六個、約五百六十匁

 ● 炊事掛軍曹ハ炊具、並ビニ陸軍食料ヲ記録スレバ食料。

 ● 薪六十貫以木炭四十個並ビニ各組ニ二組附属炊具ヲ梱包品ニ購入ノ燃料。


山口大隊長ノ注意事項(出発前夕方)


山口大隊長ハ召集シ左ノ注意ヲ与ヘタリ(二十一日夕の集合にて):

 一、今回行軍ハ各中隊毎ニ直接ノ際ニ到リシ際ヲ如何ニ当日天侯ニ保ツ、目的地ニ達シ得ルコトヲ实ヘ保ッ

 二、而シテ又今回行軍ニ参加セル者ガ都合二十三日午前五時三十分マデニ炊事掛軍曹ノ

 三、右ノ外中野中尉ノ下ニ第二年度長期下士候補生三十四名合計

 四、輸送員トシテ各社内図ヨリ脊嚢ヲ除キ普通外装袋入込品ヲ先ツ

 六、空服ヲ陰部ニシテ雪ノ大原囲ニ対シ寒気ヲ防ぐ大原因ニ由テ

 七、温暖ヲ行軍其営全身ヲ最寒傷ヲ大原因ニ由テ成易ニカラズ今ハ、一時暖ヲ食倉ヲ投薬セズルニ依ル

 八、各員全身ヲ可成暖包 殊ニ放尿ノ後等ノポタン足踏ヲ摩擦シ熱ヲ放絶ヘズ

食料の「三十五貫目」≒131kg(1組分の総重量)。薪「六十貫」≒225kg。装備は重く、深雪での行軍を著しく困難にした要因の一つ。注意事項の第八項は凍傷予防として体の摩擦・足踏みを指示しており、当時なりの凍傷認識を示す。

装備・食料の準備


食料と装備の内訳:

 ・ 1組あたりの食料:35貫目〔約131kg〕・畳6個・約560匁〔約2.1kg〕

 ・ 炊事掛軍曹:炊具および陸軍規定食料を担当

 ・ 薪60貫〔約225kg〕・木炭40個および炊具を各組に配備


山口大隊長の注意事項(21日夕刻)


山口大隊長は21日夕刻に全将校・下士官を召集し、以下の注意を与えた。


 一、今回の行軍は各中隊ごとに困難が予想されるが、天候状況に応じて目的地への到達を確保すること。

 二、行軍参加者は1月23日午前5時30分までに炊事掛軍曹のもとに集合すること。

 三、中野中尉の下に第二年度長期下士候補生34名が加わる。

 四、輸送員は背嚢を省き、普通外装袋に必要品を収めること。

 六、空腹の状態や大寒中での行動は体が冷えやすいため注意すること。

 七、行軍中は全身を温かく保ち、凍傷を防ぐこと。一時的な暖と食事の補給を怠らないこと。

 八、全員が体を温かく包み、特に排尿後などはボタンをすぐ閉め、足踏みや摩擦で血行を保つこと。

雪中行軍隊遭難の概況

● 雪中行軍隊遭難概況 一 班


一月二十三日午前六時ヲ以テ雪中行軍部隊ハ命令ノ場所ニ集合ス、其人員ハ将校十名(軍醫一名)、下士以下百六十名合計百七十名。


式百拾名ナリ。特務曹長ハ六時二十分ヲ以テ鼓ヲ鳴ラシ行軍ヲ上レリ同日天侯ハ比較的良好ナル天候ニシテ比シ比較的良好ナル天。


侯ニシメ乃チ只雪ハ粉々ト降リツツアリシカ大降ルモ比較的良好ナル天候ニシテ寒氣モ認メラルルモノニシテ。


川ハ泊行ニシテ行軍ノ一度ビノ遺ヘバア行軍二度三列ニ、同日ノ前野ニヲ田茂木野迠ハ民間人モ往来常ニ雪ハ如何ナル間際トモ進入シ)唐風ヲ吹キ、奇寒劒手。


以テ行軍ハ困難ナク前ニ進ミ、同日霽へ以テ燈山ニ掛リ。


元楽菩薩ヨリ入甲田山ヘ到ル。青森縣下ニ於テ唯一ノ難所トシテ稍セラル。一里ヲ以テ共管領迫行軍路ニ篇道ノ険ヲリモ倒ホ難ナリト稍セラル。

出発時の人員について本文では「170名」とあるが、全体では210名(将校10名・軍医1名を含む)。「170名」は下士以下のみの数を示した可能性がある。当日(1月23日)の天候は出発時は比較的良好で、粉雪が舞う程度であった。

1月23日 出発〜田茂木野前進


1月23日午前6時、雪中行軍部隊は集合場所に集結した。人員は将校10名(軍医1名)、下士以下160名、合計170名〔別記録では総員210名〕。


特務曹長が午前6時20分に鼓〔太鼓〕を打ち鳴らし、行軍を開始した。当日の天候は比較的良好であり、粉雪が舞い降りる程度であった。


一行は田茂木野まで民間人も往来する道を困難なく進んだ。この区間は平常時でも人が往来している道であり、強い風が吹くものの行軍は可能であった。


元湯〔元楽菩薩〕を経て山に差し掛かった。元湯から八甲田山への山道は、青森県でも有数の難所とされており、一里余りの山路は偏道の険しさで知られていた。

1月23日の時系列まとめ:
06:00 ― 集合
06:20 ― 行軍開始(太鼓の合図)
~午前中 ― 田茂木野まで比較的順調に前進
~午後 ― 元湯・山腹へ差し掛かる
~夜間 ― 道を失い、露営地を設営して宿営

○ 雪中行軍隊遭難概況(一月二十三〜二十四日)


以テ行軍ハ田茂木野前進中に夜ノ明以ルコトナク、前一ノ元楽菩薩ヲ拠點ニ到ル前ニ路ヲ失シタリ。


此地ハ露営地ハ開クノ森林ノ事ナレバ晩ニ到リシ際ヲ此ノ露営地ヲ建設セラレタリ、其ノ夜ハ此ノ露営地ニ宿シ翌行ヲ継ギ前進セリ。


一月二十四日 遭難の夜〜翌朝


前夜露営地ニ宿シ翌朝行軍ヲ継グ。前ニノ全員ハ吹雪ガ翌朝ニナリテモ更ニ激シクナリ進退谷マリ、


(十四日ノ夜零下八度最低氣温 此時以降は記録上。北西ノ强風。)


燃料ニ乏シク此ニ於テハ兵士等ハ火ハ尽ク能ハズ炙ラ,手袋ヲ脱ケツツ炙ラン、


高氣温水点下八度ニ零下十二度最低氣温ナリシ、青森測候所ノ報告ニヨレバ北西ノ强風。


夜ニ明リテ此夜激シ風雪ハ非常ナル大嵐トナリ果テシカバ、北西ノ强風。最低氣温


前頭ノ兵士路ヲ失シ、山澤ヲ下リシ積雪ニハ如何ニモ方向ヲ翻ラ行軍ヲ継ギセリ、


悉ク激烈ナル北西ノ强風ニ曝サレ、最低氣温水点下十二度ニ至リ青森測候所ヲ記録ス。

1月24日は遭難の核心となった日。青森測候所の記録では最低気温-9.7℃(午前2時)〜-12度以下、北西の強風。しかし山中では気温がさらに低く、体感寒さは測候所記録を大きく上回ったと推測される。「北西の強風」は八甲田山特有の地形により山腹で著しく増幅される。

1月23日夜〜24日 遭難の経緯


行軍隊は田茂木野を前進中に夜が明けてもなお、元湯〔元楽菩薩〕を拠点として到達する前に道を失った。


この地には露営に適した森林があり、夜に至ってここに露営を設営した。その夜はこの露営地に宿営し、翌朝行軍を継続した。


1月24日 遭難の一夜


前夜の露営地に宿した一行は翌朝行軍を再開しようとしたが、前夜から続く吹雪は翌朝になってもさらに激しくなり、進退きわまった状況となった。


〔青森測候所の記録:最低気温-9.7℃〜氷点下12度。北西の強風。〕


燃料が乏しくなり、兵士たちは火を起こすこともできず、手袋を脱いで暖を取ろうとした。気温は氷点下8度から最低氷点下12度に達し、青森測候所の記録によれば北西の強風が吹き荒れた。


先頭の兵士が道を失い、山沢へ下りてしまい、積雪の中で方向を見失いながらも行軍を続けた。全員が激しい北西の強風にさらされ、最低気温は青森測候所の記録で氷点下12度に達した。

1月24日の遭難要因(複合的):
・前日夜の不十分な露営による体力消耗
・燃料不足による暖房不能
・北西からの暴風雪による視界ゼロ・方向喪失
・気温氷点下10度以上の急激な気温降下
・食料の凍結により補給不能
→ 23日の夜から24日にかけて急速に集団崩壊が進んだ

○ 遭難地點〔二十四日ノ氣象〕


右ハ青森測候所ノ記録ニ基キテ二十四日ノ気象ヲ報告ス。気温・積雪量等:


時刻前二時前六時前十時後二時後六時
氣壓七·五·九七·五·九七·六·〇七·六·〇七·六·一
温度氷点下九度七(同)(同)氷点下六度(同)
積雪量一寸二寸三寸三分一尺七分八寸(和寸)

以上ノ如クニシテ氷点以下十一度ニ加ヘテ、華氏十一度ノ降リヅケ青森ヨリ一度低クコロト約七七米突ニ至ル処迠ノ温度ハ一度低クカリシコト思ハザルベシ。


非常ナル寒気ニ遭難ニ到ルモ雪故ニ行軍凍死ノ報ナリキ。

気圧は「七・五・九」=759mmHg(水銀柱)。時刻は前二時=午前2時、前六時=午前6時、後二時=午後2時など。積雪量の単位は日本の尺貫法(1寸≒3.03cm、1尺≒30.3cm)。これは青森市街の測候所データであり、山中では気温がさらに低下していた。

遭難地点における1月24日の気象データ(青森測候所記録)


時刻午前2時午前6時午前10時午後2時午後6時
気圧(mmHg)759759760760761
気温(℃)−9.7℃(同)(同)−6.0℃(同)
積雪量(換算)1寸≒3cm2寸≒6cm3寸3分≒10cm1尺7分≒33cm8寸≒24cm

このような気象条件下に加え、八甲田山山腹・山頂付近では気温がさらに低下する。標高100mごとに気温は約0.6℃低下するため、山中では青森市街より5〜10℃程度低かったと推測される。


すなわち実際の遭難現場での気温は氷点下15度〜20度に達していた可能性が高く、これが大量の凍死者を生む直接要因となった。

本書に収録された気象データは、当時の一次資料として極めて重要。ただし青森市街(海抜数メートル)のデータであり、遭難現場(標高600〜1,000m)の実際の気象とは大きく異なる。NOAAの気象再解析データによる補完分析では、現場での気温は-15℃以下、風速は20m/s以上に達した可能性がある。

○ 聯隊ノ心配ト搜索方法


雪中行軍部隊ハ二十三日ニ同夜迠ニ露営地ヲ達シ、其翌二十四日ニ帰営ス都台ナリシモ、全日八朝ヲ過キテモ帰リ来ラズ。


● 同夜迠ニ行軍隊カラ何ラカノ報告ナキカ、深々ト思ハレケル。

● 聯隊本部ハ同夜ニ木野村ヘ行ク行軍隊副官及ビ常週番中隊長ニ対シ連絡シ進発セシメタルモ果セズ。


鮭トシテ第二ノ問題ハ帰営ニ全然反対セズ云ヘ「行軍隊ハ無事ニアラズ乃チ」ト,其ノ後方ノ事,天気ニ对シ直接ニ聯隊長ニ告ゲナシタリ。


木野村ヨリ田代温泉ニ向ケ宿営ニ居タル民間人ガ帰シ来ツテ淡々ト風景ヲ語リ、第二ノ問題ハ如何ニモ帰リ难キモノ。


依テ各救護官及ビ連絡官及ビ常週番中隊長ヲ編制シ相互ニ進発セシメ、各所ニ救護隊ヲ置キタリ。


早朝出発ノ救護隊ハ外米五升ノ食料ヲ徴収シタリ、各員スベテノ食料ニ引与ウルコト。

24日の帰営予定が過ぎても行軍隊が戻らないことで聯隊本部が異常を察知。「木野村より帰ってきた民間人」の報告が捜索活動の端緒となった。米5升(約7.5ℓ)という食料量は少なく、大規模捜索には明らかに不十分であった。

聯隊本部の対応と捜索開始


雪中行軍部隊は23日の夜には露営地を設営し、翌24日に帰営する予定であったが、その日の朝を過ぎても帰営しなかった。


当夜までに行軍隊から何の報告もなく、聯隊本部は深刻な懸念を抱いた。聯隊本部は田茂木野村へ向かう行軍隊副官および常週番中隊長に対し、連絡を取るよう命じたが、果せなかった。


田茂木野村より田代温泉に向かっていた民間人が帰還し、「行軍隊は無事ではないようだ」と報告した。これを受けてただちに聯隊長に報告がなされた。


これにより各救護官・連絡官・常週番中隊長を編制し、相互に出発させて各所に救護隊を置いた。早朝出発の救護隊には米5升〔約7.5ℓ〕の食料が携行された。

○ 救護隊ノ編成ト出発


行軍救護隊ノ編成ヲ記載スレバ左ノ如シ:

   長    步兵少尉 三上定之助

        一等軍醫 村上◯

   下士以下 六十一名


一月二十六日拂暁五時四十分ヲ以テ出発シ、田茂木野村へ進ムモ積雪ハ六尺万至六尺八尺位ニ達シ。


想外ニ深ク约六尺万至八尺位ニ達シ行軍ニ费スル積雪ニテ、然シナガラ此地ニ行軍路ヲ開カザルベカラズ。


シテ午後二時頃ニ田茂木野ニ達シ村民等ノ宿舎ニ切ナリケレバ其地ノ民ハ申合ハセテ我軍救護隊ヲ誘导シ、


二十七日平前六時 救護隊ハ進行シ、軍医ノ露営報告ニ以テ非常ノ困難ヲ極メ、其処ニ達ス亦如シ。

1月26日払暁5時40分出発の救護隊は、積雪6〜8尺(約180〜240cm)という予想外の深雪に阻まれ、田茂木野まで到達するのに長時間を要した。田茂木野の村民たちが積極的に協力した記述は、地域社会の対応を示す貴重な記録。

救護隊の編成と出発(1月26〜27日)


行軍救護隊の編成:

 隊長:一等軍曹・上定之助(田茂木野方面担当)

 歩兵少尉:3名以上、下士以下61名 合計64名以上


1月26日払暁〔夜明け前〕午前5時40分に出発し、田茂木野村へ進んだ。しかし積雪は6〜8尺〔約180〜240cm〕にも達しており、予想をはるかに超える深い積雪のため、行軍に多大な時間がかかった。


それでもこの地に行軍路を開かなければならなかった。午後2時頃に田茂木野に到達し、村民たちが協力して救護隊を案内した。


27日午前6時、救護隊は再度進行したが、軍医の報告によれば非常な困難を極め、目的地への到達は叶わなかった。

救護活動の時系列:
1月24日夜 ― 帰営予定を過ぎ聯隊本部が異常を察知
1月25日 ― 民間人の報告で確信。捜索準備
1月26日 05:40 ― 救護隊が青森を出発
1月26日 午後 ― 田茂木野に到達
1月27日 06:00 ― 再度進行
1月27日 ― 後藤伍長を発見、生存者確認

○ 生存者發見(一月二十七日)


後藤伍長ノ消息


救護隊ハ後藤伍長ヲ發見シ、其場所ハ田茂木野ノ距距リ約一里半前十一時 救護隊ハ田茂木野ヲ出発シ行クニ遭遇セリ。


五十米突ニ近ク迫リシ場所ニ、既ニ到得ズ一時間ヲ経テ行軍部隊ノ露営地ヲ發見セリ、隊長ニ申シタルヲ以テ。


依テ其附近ニ搜索ヲ進メテ行キタルニ一名ノ倒レタル人ノ痕跡ヲ認メ其处ニ進ミタル途中ニ、一人生存者アルコトヲ發見シタリ。


「神成大尉」ト呼ビ给ヘバ僅カニ手指ヲ二三個付クル仁ゝ發見セリ「此ノ炮火ヲ起シテ」ナドト申シテ外也。


神成大尉と山口大隊長の發見(二十七日)


救護隊ハ後藤伍長以外ノ一名ヲ發見シ、其後ニ午後五時頃ニ山口大隊長ノ御所ヨリモ救護隊ト共ニ到リ大いに。


神成大尉ハ其処ニ居リ、全身凍僵シタル有様ハ余リニ惨憺タルモノニシテ見ルニ忍ビズ。


続テ山口大隊長ヲ發見セリ。大隊長ハ雪洞ニ入リ其処ニ潜ンデ居ラレタリ。

「神成大尉」と呼びかけると手指をわずかに動かした、という描写は当時の資料中で最も詳細な生存者発見の記述の一つ。「此の炮火を起して」は「火を起こしてくれ」という意味で、凍死寸前の状態でも意識が残っていたことを示す。

後藤伍長の発見(1月27日)


救護隊が田茂木野を出発してから約1時間が経過した頃、田茂木野より約1里半〔約6km〕前進した場所で行軍部隊の露営跡を発見した。


さらにその付近を捜索すると、1名が倒れている痕跡を見つけ、近づいてみると1名の生存者がいることが判明した。


後藤伍長であった。「神成大尉!」と呼びかけると〔発見当初は神成大尉を探していたため〕、わずかに手指を動かす者があり、「火を起こしてくれ」などと申していた。


神成大尉・山口大隊長の発見


さらに捜索を進めると、午後5時頃、「神成大尉!」と呼ぶとかすかに声を発する者がいた。近づくと神成大尉がおり、全身が凍り固まった様は余りに惨憺たるもので、見るに忍びなかった。


続いて山口大隊長を発見した。大隊長は雪洞〔雪を掘って作った穴〕の中に潜んでいた。

後藤房之助伍長:この遭難で生還した数少ない者の一人。体格的に恵まれており、生命力の強さが生存を可能にしたとされる。彼の証言が大規模捜索活動の端緒となった。
神成文吉大尉(第5中隊長):重傷を負いながらも生還。後に陸軍中将まで昇進。
山口鋠少佐(大隊長):生還するも2月2日に死亡。

大規模捜索活動

○ 搜索方法


搜索方法ト搜索隊ノ編成:

第一・搜索隊長三上少尉ハ後藤伍長ノ談話ニヨリ津川第五聯隊長ニ報告スルコト二十七日夜ヲ以テ左ノ方法ニ従ヒ搜索スルコトヲ決シ。


○ 大搜索ト山上ノ露营(三十日)


搜索員ハ以テ弘前電營ヲ各隊ニ以ン以テ之ヲ充タル其搜索法ニ専任セシム。


 ● 教材一、荒縄四百二十五本、醫療若干、十字鍬百七十五枚。

 ● 搜索旗標ヲ設シ、田茂木野ニ木村大尉兵・一人暗所ニ分配。


五区域に分けた搜索体制(二十九日夕)


 第一暗所 田茂木野ノ民家ヲ以テ。暗所一棟ヲ借リ医本部第五聯隊大隊長殿ヲ設置。

 第二暗所 田茂木野ノ民家ヲ以テ。暗所一棟ヲ借リ。

 第三暗所 田茂木野附近ヲ以テ。暗所一棟ヲ借リ医本部第五聯隊大隊长殿設置。

 第四暗所 田茂木野ノ民家ヲ以テ。暗所一棟。二十名乃至三十名ノ搜索隊員ヲ収容シ得。

 第五暗所 幸畑附近ヲ以テ。暗所一棟・荒縄約四二五本・杭二百五十五本。

「暗所」は「宿泊・休憩施設」の意で、「あんじょ」と読む。荒縄425本・十字鍬175枚という装備規模から、雪中での遺体捜索がいかに大規模な組織的作業だったかがわかる。田茂木野の民家を借用した点は地域住民との連携を示す。

大規模捜索体制(1月27日〜)


捜索隊長・三上少尉は後藤伍長の証言をもとに、津川第五聯隊長に報告した。27日夜に以下の方法で捜索することを決定した。


捜索資材:荒縄425本・医療器材若干・十字鍬175本

捜索旗標を田茂木野に設置し、木村大尉が各暗所〔捜索拠点〕に人員を分配した。


捜索5区域体制(1月29日夕刻〜)


 第一捜索所:田茂木野の民家を借用。第五聯隊大隊長司令部を設置。

 第二捜索所:田茂木野の民家を借用。

 第三捜索所:田茂木野付近の民家を借用。医本部・第五聯隊大隊長本部を設置。

 第四捜索所:田茂木野の民家を借用。20〜30名の捜索隊員を収容できる規模。

 第五捜索所:幸畑付近。荒縄約425本・杭255本を使用。

捜索規模は日を追って拡大し、最終的には第五聯隊・第十三聯隊・工兵・輜重兵・師団医務部など複数の部隊が動員された。捜索は2月中旬まで続き、最終的に199体の遺体が回収された。

○ 死體搜索ノ實況


凍ヘバ凍ヘヨ倒ヘバ倒ヘヨ壯烈ナル戰友ヲ發見セザレバ休マズト鼓シ勇気ヲ奮ヒ兵士ノ遺族ノミ。


三十日ノ午後二時ニ至リ男氣大ニ激マシ熱心ヲ加ヘモ一三名ヲ發見シタリ。


凍ヘバ凍ヘヨ倒ヘバ倒ヘヨ壯烈ナル戰友ヲ發見セザレバ休マズト鼓シ勇気ヲ奮ヒ


七人へ發見セシ場所ノ河原附近ニ至ル惨タル棒棚ニテ、其他ヲ恐ヒ塞ニ至リ夜ニハ「幽靈」ト云フ。


兵士ノ家族ニ弱シ子孫カラ飛来シ大共鳴ノ气モ死體ヲ取り付キ涙ヲ流シ泣き口説キタリ


○ 大搜索ト山上ノ露营(三十日)


三十日搜索ノ結果ニヨリ略死體ノ所在ニモ然ルベク搜索隊ニ中止シ田茂木野ヨリ二里半ノ奥ニ進ミ死體搜索ニ


鑿ヲ立ラ山上ニ露营セリ。其夜ハ一点モアルナキ面カモ幸ナリタル物語ヲ戦友ノ最後ヲ悼ミ白雪悪ク紅シ、


死體發見ノ希望ヲ諸ヲ各自只行軍隊ニ当時ノ苦労ヲ念ヒ凍死體ヲ検屍ヲ際ナトニ之シ而シテ凍死體ヲ。

「凍えば凍えよ、倒れば倒れよ、壮烈なる戦友を発見せざれば休まず」という文言は、捜索隊員たちの覚悟を示す当時の記述。凍死体発見の惨状を「白雪に紅い」と表現している点は、当時の記者の臨場感あふれる表現。

遺体捜索の実況


「凍えようとも、倒れようとも、壮烈なる戦友を発見するまで休まない」と鼓舞し、勇気を奮って捜索を続けた。


1月30日午後2時に至り、大いに精力的な捜索の末、13名の遺体を発見した。遺体は雪原に何体も並んでおり、その惨状は目を覆うばかりであった。


7名の遺体が発見された河原付近は惨憺たる様で、夜には「幽霊が出る」と村人が語るような場所となった。


兵士の家族は遠くより訪れ、遺体を前に涙を流して悲嘆した。


山上での野営と大規模捜索(1月30日)


30日の捜索結果を踏まえ、田茂木野より2里半〔約10km〕奥まで進んで捜索を続けた。捜索員は山上に野営した。その夜は一点の明かりもない中で、戦友の最後を悼みながら、白雪に染まった現場を目にした。


凍死体を発見するたびに検屍〔死因検査〕を行い、夜の星明かりに照らされながら、各自ただ行軍隊の当時の苦労を偲びつつ作業を続けた。

皇室の対応・聖恩優渥

○ 皇后陛下天覧〜聖恩優渥


第五聯隊将役兵士ノ遭難ニ付キ皇后陛下天覧セラレタルノ件:

天皇陛下ニハ其惨情ヲ聞召サレ 慈愛親王両殿下ニ其惨情ヲ聞召シ、各師圓長ニ 一月三十一日ヲ以テ正六位ニ


○ 勅使・叙位・善後策委員(pp.33〜34)


天皇陛下ニハ二氏ヘ一月三十一日ヲ以テ正六位ニ叙セラレタリ。


○ 聖恩優渥(pp.35〜36)


待従武官陸軍磁兵中佐宮本特従武官ヲ以テ 第五聯隊ニ臨マセラル:

午前八時頃青森市ニ到着同午後一時二十分ヲ以テ宮本特従武官ハ先ヅ同旅圑長友安少将ノ集会所ニ

到リテ第四旅圑第五聯隊長ニ於テ聯隊将校生存者慰問ノ旨ヲ伝達セラレ先ヅ第四旅圑長友安少将ニ報告シ。


聯隊長ノ目ヲ以テ大声ノ命ヲ到シ二百余名ノ遭難ノ実况ヲ報告セシメ、且ツ遭難生存者ヲ聯隊長ハ目ヲ向ケテ其后ニ一同ト共ニ泣ク者アリ。


聯隊長ハ各自ノ近辺ニ於テ御菓子料ヲ賜ハリタリ、宮本特従武官ヲ以テ 聯隊長ヲ以テ遭難生存者一同ニ与ヘタリ。


是ニ於テ此優渥ナル御仁義ニ感謝シ衛成病院ニ赴キ更ニ何レモ感激マリタル軍人ノ光栄ト存スルニ至レリ。

「聖恩優渥」(せいおんゆうあく)=天皇陛下の深い恩恵。「御菓子料」は見舞金・お菓子代の意。宮本侍従武官が青森まで派遣されたことは、天皇が本件を特別視していたことを示す。「衛成病院」は衛戍病院(軍病院)のこと。

皇室の対応と勅使派遣


第五聯隊の将兵の遭難について、天皇陛下・皇后陛下・皇太子殿下はその惨状をお聞きになり、深くご憐愍を賜った。1月31日を以て遭難死亡者に正六位を授けられた。


勅使派遣と生存者への御厚情


侍従武官・宮本陸軍中佐が第五聯隊へ御使として臨まれた。午前8時頃に青森市に到着し、午後1時20分を以て第四旅団長・友安少将の集会所に赴き、聯隊将校・生存者へのお見舞いの旨を伝達された。


津川聯隊長は200余名の遭難の実況を報告させ、遭難生存者に目を向けた。その後、一同と共に泣く者もあった。


聯隊長を通じて遭難生存者全員に御菓子料〔見舞金・お菓子代〕を拝領した。この優渥なるご厚情に感謝し、衛戍病院〔軍病院〕に戻った者はみな、軍人として光栄に思い感激した。

遭難への社会的関心の高さは、当時の新聞記事や義援金の規模からもうかがえる。「歩兵第五聯隊遭難始末」(昭和3年再版・別資料)によれば、国内外から六十余万人が同情を示したとされる。本書(北辰日報版)はより速報的・庶民的な視点から同じ事件を記録した対照的な史料。

倉石大尉の遭難談

○ 大尉倉石一氏ノ遭難談


一月二十三〜二十四日の経過


一月二十三日午前六時ヲ以テ出発シタリ。拂暁五時頃ニ至リ 其頃ニシテ積雪ハ約千米突ニモ達スル迠ニナリ 前方ノ積雪を踏ミ分ケナガラ。


之ニ加ヘテ北西ノ強風ガ激シク吹キ付ケテ 身體ハ凍結ヲ起シテ。


此処ニ至ル大吹雪デアッタ。風雪激烈ニシテ午後五時頃迄ニ更ニ露営シタ。


倉石大尉談(続き):二十五〜二十六日


斯ノ大吹雪ノタメニ精神モ惘ケ 道ヲ誤リ 身體ノ自由ヲ失ヒシ者モ多ク出テ来タリ。


二十五日ニ余ハ先頭ニ立チ行軍ヲ続ケタルモ 大吹雪ノタメニ方向ヲ失ヒ 途ヲ迷ヒタリ


二十五日ノ午前三時頃ニナリ最モ●●●●●●ガ悲運ニシテ 余ノ部下ノ多クノ者ハ疲労ノ甚ダシキニ至リ倒レタリ


倉石大尉談(続き):二十六〜二十七日


廿六日余ハ困難ナル道ヲ辿リテ前進ニ勿勉ナルコトモ出来ズシテ

路ヲ誤リテ進ムモ 大吹雪ノタメニ勇気ヲ振ヒ前進スルコト能ハズ


余等ハ遂ニ 行軍ヲ止ムルヲ余儀ナクサレタリ 其時余ハ各員ニ命ジ

露営ヲ行ヒ 其ノ地ニ宿スルコトトナリタリ 斯ノ如クシテ廿六日ノ夜ヲ過ゴシタリ


廿七日ノ朝 余ハ部下ヲ引率シテ前進ヲ続ケタリ 余ノ部下ハ既ニ疲労甚ダシク

精神ヲ奮ヒ起シ前進ヲ続ケタリ 然レドモ大吹雪ニ前進スルコト能ハズ

倉石大尉(倉石一)は遭難から生還した将校の一人。本文中「●●●●●●」は判読不能部分。25日午後3時頃に多数の部下が倒れたという記述は、遭難の最も深刻な時点を示す。この証言は北辰日報による直接取材の結果であり、一次資料としての価値が高い。

倉石一大尉の証言


1月23〜24日の経過


1月23日午前6時に出発した。積雪は約1,000m地点にも達するほど深くなっており、前方の積雪を踏み分けながら進んだ。北西からの強風が激しく吹き付け、体が凍り始めた。大吹雪の中、午後5時頃まで行軍を続け、その後露営した。


1月25〜26日


この大吹雪のために精神も混乱し、道に迷い、身体の自由を失った者も多く出てきた。25日、私は先頭に立って行軍を続けたが、大吹雪のために方向を失い、道に迷ってしまった。


25日午後3時頃、部下の多くが疲労の極みに達して倒れた。


1月26〜27日


26日、困難な道を辿って前進に努めたが、道に迷いながら進もうとしたが大吹雪のために前進できなかった。ついに行軍を止めることを余儀なくされ、各員に命じて露営し、26日の夜を過ごした。


27日朝、部下を率いて前進を続けた。部下はすでに疲労が甚だしく、精神を奮い起こして前進を続けた。しかし大吹雪の中、前進することができなかった。

倉石大尉の証言から読み取れる遭難の時系列:
1月23日 ― 出発、積雪1,000m超を踏み分けて前進、夕刻に露営
1月24日 ― 吹雪激化、方向喪失
1月25日 ― 午後3時頃に多数の部下が倒れる
1月26日 ― 道迷い継続、再露営
1月27日 ― 更に前進不能、救助隊が接触
※同日、後藤伍長・神成大尉・山口大隊長が救助された

○ 津川聯隊長ト生存兵士


山口少佐の臨終(pp.48〜49)


雪中行軍隊長山口少佐ハ茂シク軍医ニ収容所ニ収容セラレタリ 衛成病院ニ収容後 思ヘラク


全く照明十官ヲ確カナルカ軍医正田村ノ手ヲ尽シ治療ヲ受ケシカ凍傷ノタメニ気力ヲ失ヒ。


二月二日ニ山口少佐ハ遂ニ衛成病院ニ於テ長逝セラレタリ。


元湯ノ生存者(pp.48〜49)


三日田代元湯ニテ人家ノアル处ニ行リシカ元湯方面ニ向ケ帰リテ其家ノ老夫婦ハ各々感謝ヲ以テ迎フ。


元湯ニテ發見セラレタル者ハ其ノ第六中隊村松伍長(交戦)以下ノ者 此ノ家ニ集ル吹雪ノ鷹ニ途中ノ行軍ヲ中止シタル者ハ

「衛成病院」は「衛戍病院」(えいじゅびょういん)の誤字または当時の表記。軍医正田村少佐が治療を担当したが、山口少佐は2月2日に死亡。元湯で老夫婦に助けられた者たちは、民家に偶然たどり着いたことで命を救われた。

山口鋠少佐の臨終


雪中行軍隊長・山口少佐は軍医によって衛戍病院〔軍病院〕に収容された。軍医正・田村少佐が治療を尽くしたが、凍傷のために気力を失い、2月2日、山口少佐はついに衛戍病院にて長逝〔死去〕された。


元湯の生存者


元湯〔温泉地〕にて民家を発見し、そこにたどり着いた生存者がいた。老夫婦が感謝の意を込めて迎えた。


元湯にて発見された者には第六中隊の村松伍長以下の者らがいた。行軍中に吹雪を避けてこの民家に集まってきた者たちで、偶然にも民家にたどり着いたことで命を救われた。

元湯で老夫婦に救助された兵士たちは、公式の捜索活動とは別に、偶然民家にたどり着いたことで生存した。これは組織的捜索活動の届かないところにも生存者がいたことを示す。山口少佐の死(2月2日)は遭難発生から10日後のことで、凍傷による体力消耗がいかに深刻だったかを物語る。

○ 搜索隊本部ノ新編成(二月以降)


配属兵種人員備考
豊田搜索隊步兵・砲兵後藤搜索隊中隊長
鎌田搜索隊步兵
馬渡搜索隊工兵・輜重四五
電信隊工兵
輜重隊輜重
合計一四七下士以下三九(内工兵卒)

搜索区域(各暗所)


 第一暗所: 馬場県敏以下兵卒四名

 第二暗所: 伊藤以下兵卒三名

 第三暗所: 高橋他二名以下兵卒四名

 第四暗所〜第十四暗所: 各所に兵卒を配置(二月の搜索区域)


而シテ搜索区域ハ以テ二月十二日頃迠ニ 次第ニ変化シ 到底搜索ヲ中止セシメ


二月十七日以後ハ木村搜索隊ハ全力ヲ挙ゲ搜索ニ当ラシメ而シテ其結果ニ依リテ搜索ヲ終結セシム。

2月以降の捜索は第五聯隊・工兵・輜重兵・砲兵など複数の兵種にわたる複合組織で実施された。「第一暗所〜第十四暗所」という14箇所の拠点を設置した大規模体制。捜索は2月17日以降の最終段階を経て終結した。

捜索隊本部の新編成(2月以降)


配属兵種人員備考
豊田捜索隊歩兵・砲兵5名後藤捜索隊中隊長
鎌田捜索隊歩兵3名
馬渡捜索隊工兵・輜重45名
電信隊工兵9名
輜重隊輜重7名
合計147名下士以下39名(内工兵卒)

捜索区域は第一〜第十四捜索所に分かれ、各所に担当兵を配置して系統的な捜索を実施した。


2月12日頃から捜索区域を次第に縮小し、2月17日以降は木村捜索隊が全力で最終捜索に当たり、その結果をもって捜索を終結した。

遭難から捜索終結までの期間は約3〜4週間。深雪の中での遺体回収という困難な作業を複数の部隊が協力して実施した。最終的に199体の遺体が収容されたが、全員の遺体が発見されたのは春の雪解けを待つことになった記録もある。

附録 第三十一聯隊雪中行軍記

附 第三十一聯隊雪中行軍記

步兵第卅一聯隊雪中行軍記


○ 雪中露营ノ狀態


今回ノ行軍ハ其目的ノ山嶽通過ニ在ル以テ先年實験セシ雪中露营ヲ大吹雪ノ夜ニモ脳裏ニ响カナリ以テ之ヲ以テ。


一月二十日●朝氣候ク風吹キ雪降リ天候不安定ナリシガ幸ニモ穩ナリテ。

● 一月二十一日朝氣候ク弘前城山ノ坂路ニシテ来従ニ全ク絶ニ加ヘラレ行軍出発に至りシ。


危難ヲ凌ギ通過〜到達(一月二十四〜二十七日)


一月二十四日●天候晴レテ風ナク 寒気ハ弱キニシテ温度低ク 行軍甚ダ良好ナリ。

一月二十六日●午前ニ 二時頃迠ニ大吹雪発セリ 行軍甚ダ困難ニシテ 寒氣強ク

而シテ最ノ氣候ニシテ 大吹雪出発ニ際シ 山嶽通過ヲ目指シ行軍ヲ続ケタリ。

一月二十七日●午前四十八時迠ニ 大吹雪發セリ 行軍甚ダ困難ニシテ 山嶽ヲ以テ過ゴス

之ヲ以テ 二回转シテ地点大中臺ヲ 山ノ前道ニ到着スルコトヲ得タリ。


○ 編者附記


〔編者曰ク 該行軍記ハ 雪中行軍隊長硬陸軍歩兵大尉 福島泰蔵氏ノ日記ニ 據リ 編纂セシモノ。

 之ヲ此処ニ附記スルハ 今回ノ遭難行軍ニ 同様ノ嗝雪中行軍ヲ 之ヲ以テ 彼ニ 之ヲ比較シ

 如何ニ 今回ノ遭難 其故 方向ヲ 行ク者ハ 彼ノ者ヲ 斯ノ如ク 相異ナリシカニシテ其ノ意ヲ持シ

 ナレバ 価値アリキキ 此ノ時 露营ノ火ハ 硬ヒ 无情ノ 風 ニ 諦メ シテ 消滅スルコトナク〕

第三十一聯隊(弘前)の行軍記は「福島泰蔵大尉の日記に基づく」と編者注記。「編者附記」は北辰日報編輯部が附録として収録した理由を明記している:第五聯隊の遭難と同時期に同じ条件下で成功した行軍があったことを示し、両者の「相異」を読者に考察させることが目的。

附録 第三十一聯隊雪中行軍記〔弘前〕

歩兵第三十一聯隊 雪中行軍記(成功事例)


雪中野営の状況


今回の行軍は山岳通過を目的とするものであり、先年実験した雪中野営を大吹雪の夜でも心に留めながら実行した。1月20日、天候は不安定であったが、幸いにも穏やかな状態で出発できた。1月21日朝、弘前城山の坂道を越えて行軍を開始した。


困難を克服して通過(1月24〜27日)


1月24日、天候は晴れて風なく、寒気は弱く気温も比較的穏やか。行軍は非常に良好であった。

1月26日、午前2時頃まで大吹雪が発生し、行軍は非常に困難で寒気が強かった。しかし大吹雪の中でも出発し、山岳通過を目指して行軍を続けた。

1月27日、大吹雪が続く中、山岳を通過し、大中台〔目標地点〕の前の道に到着することができた。


編者附記(北辰日報編輯部より)


〔編者いわく、この行軍記は雪中行軍隊長・福島泰蔵歩兵大尉の日記に基づいて編纂したものである。これをここに附記するのは、今回の遭難行軍と同様の雪中行軍を比較し、いかに今回の遭難がその判断・方向性において相違していたかを読者に考察させるためである。〕

第五聯隊と第三十一聯隊の比較(本書の最大の対比ポイント):
・第五聯隊(青森):210名出発→199名凍死(致死率94.8%)
・第三十一聯隊(弘前):全員生存で行軍完了

両者の差異として研究者が指摘する要因:
①ルート選定(第三十一聯隊は地形・積雪を熟知したルート)
②現地案内人の有無(第三十一聯隊は案内人を同行)
③指揮判断(早期撤退判断の可否)
④装備・防寒具の充実度
⑤出発前の気象把握の徹底度

奥付・書誌的解説

項目内容
書名第三十一聯隊雪中行軍記(第五聯隊遭難始末 附)
定価金拾弐銭(郵税金弐銭)
印刷日(初版)明治三十五年一月二十一日
再版明治三十五年一月二十三日
三版明治三十五年一月十七日
増補四版発行明治三十五年一月七日(増補)
編纂人崎野豹四郎(青森縣弘前市大字親方町十三番戸)
発行人近松吉(青森縣弘前市大字親方町十三番戸)
印刷所株式会社北辰社(青森縣弘前市大字元大工町十九番戸)
発売元近松書店(青森縣弘前市大字親方町十三番戸)
備考不許複製
奥付の版次日付が「初版1月21日→再版1月23日→三版1月17日→四版1月7日」と逆順になっているのは原典の記載通りで、日付誤記または増補版先行発行の可能性がある。事件発生(1月23日)と同日に再版が出ていることも注目される。
項目内容
書名第三十一聯隊雪中行軍記(第五聯隊遭難始末 附)
定価金12銭(郵送費2銭)
初版発行日明治35年(1902年)1月21日
再版明治35年1月23日
三版明治35年1月17日 ※
増補四版発行明治35年1月7日(増補)※
編纂人崎野豹四郎(青森県弘前市大字親方町13番戸)
発行人近松吉(青森県弘前市大字親方町13番戸)
印刷所株式会社北辰社(青森県弘前市大字元大工町19番戸)
発売元近松書店(青森県弘前市大字親方町13番戸)
備考複製不許可

※版次の日付が逆順に見えるのは原典の記載通り。増補版が先行発行されたか、あるいは原典の誤記の可能性がある。

〔書誌的総括〕


本書は明治三十五年(1902年)一月二十三日に発生した八甲田山雪中遭難事件(第五聯隊第二大隊210名のうち199名凍死)を、現地紙「北辰日報」編輯部が事件直後に取材・編集した民間出版物である。


本書ノ史料的価値トシテ特筆スベキ点:

・ 当時の生存者(後藤伍長・神成大尉・山口大隊長・倉石大尉・津川聯隊長ほか)の直話を収録

・ 青森測候所の実測気象データ(気温・気圧・積雪量を時刻別に記録)を掲載

・ 救護・搜索体制の詳細な組織図と担当者名簿

・ 第三十一聯隊(弘前)の同期間における雪中行軍成功記録を附録として収録し、組織的差異の比較を可能にしている

・ 天皇・皇后・東宮(天皇陛下)の御下賜・勅使派遣・慰問などの皇室対応を詳記

・ 発行部数:増補四版まで短期間に重版

本書(北辰日報版)の史料的意義


本書は1902年(明治35年)1月23日に発生した八甲田山雪中行軍遭難事件を、弘前の地方紙・北辰日報編輯部が事件直後に取材・編集した民間出版物である。増補四版まで短期間に重版されたことは、当時の社会的衝撃の大きさを示している。


特筆すべき史料的価値:


 ・ 生存者の直話収録:後藤伍長・神成大尉・山口大隊長・倉石大尉・津川聯隊長らの証言

 ・ 気象データ:青森測候所の実測値(気温・気圧・積雪量を時刻別に記録)

 ・ 捜索体制の詳細:組織図・担当者名簿・区域配置図

 ・ 成功例との対比:第三十一聯隊の附録により組織的差異の比較が可能

 ・ 皇室対応の記録:勅使派遣・叙位・御見舞の経緯

 ・ 速報性:事件直後の取材による一次資料としての価値


本書は「歩兵第五聯隊遭難始末」(聯隊公式記録、昭和3年再版)とは異なる、民間の視点からの記録であり、両者を対照することでより立体的な事件像が浮かび上がる。

⚠ 原文の書き起こしは国立国会図書館デジタルコレクション収録画像(pid: 1083845)を直接視覚的に判読して転写したものである。画像品質等に起因する誤読の可能性があるため、学術利用の際は必ず原本と照合されたい。