歩兵第五聯隊遭難始末並附録

全文書き起こし・現代語訳
原本:歩兵第五聯隊 編『歩兵第五聯隊遭難始末並附録』昭和3年再版
国立国会図書館デジタルコレクション(pid/13121332)
Part 8(最終)― 附録 p.32〜37 + 奥付
3頁
収録ページ(見開き)
附録 p.32–37
原本対応頁
最終巻
全書完結
奥付
明治35年 / 昭和3年

Part 8(最終巻)の内容:附録(続き・完結)― 「北海道土人」(北海道からの捜索志願者)による捜索支援の全記録。招聘の経緯、到着、雪中装備の特徴、駒込河谷での67日間の捜索活動、幼年者を含む家族ぐるみの参加、感謝状・褒賞の詳細。および本書の奥付(初版:明治35年7月、再版:昭和3年10月)。

附録(続き・完結)
附隨 北海道土人 行軍隊遭難ノ事變アルヤ聯隊長ハ一刻モ速ニ其蹤跡ヲ確メ死體ヲ發見シ以テ遺族ヲ慰藉セントニ努力ス之ガ爲メ有利ナル手段トシテ北海道土人ヲ採用スルコトヲ考慮シ或ハ用ヒテ功ヲ奏スルアランモノトシ依テ第八師團參謀長ニ諮ル參謀長之ニ同意シ即チ書ヲ函館要塞司令官ニ贈リテ土人雇入ノ勞ヲ委ヌ 司令官因テ北海道膽振國茅部郡森村醫師村岡〔格〕ニ届ス同〔格〕各嚮導ヲ募ル其名左ノ如シ 辨開凮次郎 吉有楡力藏 板坂是松 板木力松 明日見米藏 二月十日ヲ以テ屯営ニ到着シ翌十一日ヨリ搜索業務ニ従事ス 抑モ北海道ノ地ノ冬季寒冷ハ東北地方ノ比ニアラズ積雪亦常ニ数尺ヲ越ユ故ニ其土人ノ雪ト寒氣ニ對スル経験ハ到底本土人ノ豫想シ得ザル所ナリトス宜ナリ其被服タル禰袢衿袷ノ下ニ綿入一枚ヲ着シ股引ヲ穿チ麻製脚袢ヲ用ユ而シテ其上所謂アッシナルモノヲ被ヒ足ニハ鮭皮鹿皮若クハ馬皮製ノ靴ヲ穿チ狐ノ頭骨ヲ攜フ護身ノ神ナリト其體輕ニシテ其勘敏活山野ヲ跋渉スル平地ヲ行クガ如シ 又彼等搜索隊本部ニ至リ隊長ニ白シテ曰ク「明治維新以來北海道ノ地亦皇化ニ浴シ不肖等幸ニ天恩ヲ蒙リテ泰平ヲ謳歌スルヲ得何ノ幸福カ之ニ過ギン唯報恩ノ期ナキヲ之レ恐ル然ルニ今回不慮ノ天災ニヨリ陛下ノ股肱二百餘人空シク積雪ノ裏ニ埋没セリト不肖等哀悼ノ至リニ不堪今幸ニシテ搜索ノ命ヲ受ク鴻恩ノ萬一ニ報スル將ニ此時ニアリ焉ゾ微力ヲ致サヾランヤ開說天嶮近ッ可カラサルモノアリト不肖等元一死アルノミ不幸ニシテ生ヲ此地ニ殞スルモ皇澤長ク子孫ニ及ブ不肖等死シテ餘榮アリト云フベシ何ノ憾カ之レアラン」 当地方土民ヲ嚮導トシ主トシテ駒込河谷ノ搜索ニ任ジ獨立事ニ從ハシム
北海道土人 ― 北海道からの捜索志願者

【招聘の経緯】

行軍隊遭難の事あるや、聯隊長は一刻も速やかにその蹤跡を確かめ、死体を発見して遺族を慰藉せんと努力した。そのために有利な手段として、北海道土人(北海道の人々)を用いることを発案した。

彼らは勇悍(勇敢かつ強靭)にして説偉(すぐれた体躯)であり、かつ寒気・積雪に経験がある。寒司合官〔参謀合官〕に謀り、第八師團參謀長に議し、参謀長もこれに同意した。北海道庁振国部を通じて函館に書を送り要請した。

郡森村医師・村岡格に嘱し、村岡格が幹旋して人材の募集にあたった。以下の者たちが志願した:

坂是松從宇三郎板木力松明日見米藏、同郡落部村開拓の者たち。勇吉有輸力藏ほか。

【到着と捜索業務開始】

2月10日をもって北海道より到着し、捜索業務に従事した。

東北地方の積雪は常に数尺を超え、北海道の人々の予想をも及ばざる所であった。

【独特の雪中装備】

下に綿入一枚を着し、股引を穿ち、麻製脚絆を用いた。脚絆は鹿皮もしくは馬皮製。その上に所謂「アッシ」(アットゥシ=アイヌの樹皮衣)なるものを被った。足には鹿皮若しくは(獣の)皮製の靴を穿いた。身体は軽く敏捷にして、活き活きと山野を踏破した。

【報恩の精神と捜索への献身】

彼らは捜索隊本部に至り、隊長に申し上げた:「明治維新以来、北海道の地も皇化に浴し、私どもは幸いに天恩を蒙り太平を謳歌することができました。ただ報恩の機を得ずにいたことをこそ恐れておりました。しかるに今回、不慮の天災により陛下の股肱たる二百余人が空しく積雪の裏に埋没されたと聞き、私どもは哀悼に堪えません。今幸いにして捜索の命を受けました。鴻恩の万一に報ずるはまさにこの時。いかに天険近づきがたくとも、私どもは死を覚悟するのみ。不幸にしてこの地に命を落とすとも、皇澤は長く子孫に及びましょう。死して余栄ありと言うべし、何の憾みかこれあらん」

かくして当地のアイヌを嚮導(案内役)とし、主として駒込河谷の捜索に任じ、独立して事に従わせた。

📝 注記:「北海道土人」は当時の呼称で、アイヌ民族および北海道開拓者を含む。「アッシ」はアイヌ語の「アットゥシ(attus)」で、オヒョウニレの内皮繊維で織った衣服。鹿皮・馬皮の脚絆や靴も、アイヌの伝統的な狩猟装備を反映している。
「第八師團參謀長」は当時弘前に本部を置く第八師団の参謀長。村岡格は北海道・森村(現・森町)の医師で、人材募集の窓口となった。
「駒込河谷の捜索」は最も危険で困難な地域を独立して担当させたことを示し、彼らの雪中技術が高く評価されていたことを物語る。
二月廿五日ニ至リ陸軍步兵少尉三神定之助ヲ以テ其指揮ヲ司ラシム土人等之ヲ棄トシ盆奮勵シテ屡々危險ヲ冒シ溪谷ノ間ヲ奔走シ幾十仍ノ絶壁ヲ昇降シ寒冷切ルガ如キ溪水ヲ渡リ時ニ奔流ニ陷ッテ將ニ溺レントスルノ危殆ニ瀕スルモ顧ミザルガ如キ彼等ガ一身ヲ賭シテ奉公ヲ效スノ精神歷々見ルベク勇壯豪氣身體強健ナルガ如キ三神少尉ヲシテ時ニ一步ヲ讓ラシムルニ至レリ唯未開ノ人民ニ常癖タル少疑心ニ富ミ之ガ爲メ三神少尉ヲシテ困難ヲ感ゼシメタリト云フ 尉ノ操縱其宜キヲ得テ彼等悅服幸ニ事ナキヲ得タリ既ニシテ三月旬辨開勇吉碓宇三郎板木力松家事ヲ以テ去リ更ニ村木國太郎及凮次郎ノ次子勇次來ル勇次年齢漸ク十四躯幹甚ダナラズ一見可憐ノ小兒ナリト雖モ幼ヨリ父兄ニ從フテ山中ニ狐狸鸂熊ヲ狩リ豪膽強壯長者ヲ凌ク故ニ搜索隊ニ在リ其動作質ニ壯者ヲシテ後ニ撞着セ シムルモノアリ斯ノ如クシテ此一行ハ四月十九日ニ至ルマデ六十七日間連續搜索ニ従事シ得ル所死体十一其他行軍隊ノ遺棄セル武器装具等ヲ得タルハ蓋シ枚擧ニ遑アラス其發見ノ位置ハ悉ク駒込川及其両岸最嶮難ナル場所トス 四月中旬ニ至リ搜索ノ業務大ニ進捗シ且ッ土人モ又自個生活ニ必要ナル時機トナリ多少思鄕ノ念ナキニアラサルヲ以テ十九日全ク其任ヲ解キ鄕里ニ歸ラシメタリ 斯ノ如ク土人ガ聯隊ニ盡シタル功績僅少ニアラズ故ニ聯隊ノ彼等ヲ遇スル又頗ル厚ク其給養ハ一日一人ニ與フル飯米一升ノ上ニ出デ而シテ酒ハ其嗜好ニヨリ平均一升ヲ與ヘシモ其效果ヲ擧タルノ日ハ殊ニ増給ヲナシ又其賞金ハ一日ノ額辨開凮次郎有楡力藏ハ二圓他ハ一圓五十錢宛ヲ支給シ且ッ三月上旬賞金トシテ金圓ヲ與ヘ帰還ニ際シテハ聯隊長ノ名ヲ以テ各人ニ感謝状ヲ附與シ添ユルニ同シク金圓ヲ

【2月25日以降の捜索活動】

2月25日より、陸軍歩兵少尉三神定之助が指揮を執った。アイヌの人々はこれを任とし、奮励して屡々危険を冒し渓谷の間を奔走した。幾十仍の絶壁を昇降し、寒冷の溪水を渡り、時に奔流に陥って溺れんとする危殆にも顧みなかった。一身を賭して奉公を効す精神は歴々と見るべく、勇壮豪気・身体強健なるがゆえに三神少尉をして時に一歩を譲らしめるほどであった。ただ未開の人民に常の癖たる少疑心があり、これが三神少尉に困難を感じさせたと言う。

三神少尉の操縦がよかったため、彼らはやがて悦服し、幸いに事なきを得た。

【メンバー交代・幼年者の活躍】

3月旬に辨開勇吉・碓宇三郎・板木力松が家事のため帰郷。代わりに村木國太郎および凮次郎の次子勇次が参加した。勇次は年齢まだ十四歳、躯幹は甚だ小さく一見可憐な小児であったが、幼より父兄に従って山中で狐・狸・熊を狩り、豪膽強壮にして長者を凌いだ。捜索隊にあってその動作は実に壮者をして後に撞着せしめるほどであった。

【67日間の捜索成果】

一行は4月19日に至るまで67日間連続して捜索に従事した。発見した死体11体のほか、行軍隊が遺棄した武器・装具等も多数を回収した。発見位置は悉く駒込川およびその両岸の最嶮難な場所であった。

4月中旬に捜索業務が大いに進捗し、また土人も自個の生活に必要な時期となり多少の思郷の念もあって、4月19日に全く任を解き帰郷させた。

【感謝と褒賞】

かくのごとく土人が聯隊に尽した功績は僅少にあらず、聯隊の待遇は頗る厚かった。給養は一日一人・飯米一升の上に出て、酒はその嗜好により平均一升を与え、成果を挙げた日は殊に増給した。日当は辨開凮次郎・有楡力藏が2圓/日、他は1圓50錢/日。3月上旬に賞金として金円を与え、帰還に際して聯隊長の名をもって各人に感謝状を附与し、あわせて金円を添えた。

📝 注記:北海道志願者は2月10日到着から4月19日まで67日間連続で捜索に従事した(死体11体・遺棄武器装具多数回収)。駒込河谷という最も危険で急峻な地域を独立して担当した。
3月旬にメンバー交代があり、辨開勇吉・碓宇三郎・板木力松が帰郷し、村木國太郎と凮次郎の次子勇次(14歳)が参加。「小児なりと雖も長者を凌ぐ」という記述は、北海道での狩猟生活を通じて培われた山岳行動能力が軍の正規兵をも上回っていたことを示す。
指揮官は三神定之助少尉(陸軍歩兵少尉)。日当は辨開凮次郎・有楡力藏が2圓、他は1圓50錢。帰還時に聯隊長名で感謝状が附与された。
以テ而シテ猶彼等ノ志願ニヨリ三神少尉報告ノ爲メ弘前師團司令部ニ赴クノ便ヲ以テ該所ニ誘導セシメ市内ヲ一巡シテ師團司令部並ニ官衛兵營ノ状况市街ノ光景ヲ觀覽セシメタリシカバ彼等感泣只管其待遇ノ厚キヲ謝シ叩頭數次廿一日函館航行ノ便船ニヨリ歸還シタリ 明治三十五年七月十五日 印刷 明治三十五年七月廿三日 發行 昭和三年十月廿五日 再版 步兵第五聯隊 印刷者 菅原源三郎 青森縣青森市大字鹽町三十七番地 印刷所 菅原印刷所 全縣全市全町全番地

【北海道志願者の帰還】

さらに彼らの志願により、三神少尉の報告を兼ねて弘前師団司令部に赴く便をもって該所に誘導し、市内を一巡させた。師団司令部・官衛兵營の状况および市街の光景を観覧させたところ、彼らは感泣した。ひたすらその待遇の厚きを謝し、叩頭すること数次4月21日、函館行きの便船により帰還した。

奥 付

明治三十五年七月十五日 印刷
明治三十五年七月二十三日 発行
昭和三年十月二十五日 再版
步兵第五聯隊
印刷者:菅原源三郎
青森県青森市大字鹽町三十七番地
印刷所:菅原印刷所
全縣全市全町全番地
📝 注記:本書は明治35年(1902年)7月15日に初版印刷、同年7月23日に発行された。八甲田雪中行軍遭難事件(明治35年1月23日〜)からわずか約半年後の刊行である。その後、昭和3年(1928年)10月25日に再版された。本書き起こし・現代語訳で使用したのはこの再版(国立国会図書館デジタルコレクション pid/13121332)である。
印刷者の菅原源三郎、印刷所の菅原印刷所は青森市鹽町に所在した。
北海道志願者が帰還前に弘前の師団司令部や市街を観覧し「感泣した」という記述は、当時の北海道開拓者が本土の近代都市を初めて見た衝撃を示すと同時に、彼らへの感謝の気持ちの表現でもある。函館航行の便船で帰還したことから、当時の青森〜函館間の連絡船航路が利用された。

― 全書完結 ―

『歩兵第五聯隊遭難始末並附録』全文書き起こし・現代語訳
Part 1〜Part 8(全8巻)をもって完結

原本総頁数:本文238頁+附録37頁+奥付 | 事件期間:明治35年1月23日〜同年4月
内容:雪中行軍の経緯、遭難の全容、捜索救護活動、遺族対応、義捐金、栄誉・追悼、殉職者名簿199名、個人美談集17話+附随(村民の尽力・北海道土人)

📎 折り込み附図・附表(未翻刻):本書末尾には折り込み式の附図・附表が複数枚付属する(スキャン画像 0155〜0164)。確認できるものとして①気象観測グラフ(横軸:1月10日〜30日、縦軸:気象値、三色折れ線)②等高線地図(駒込川流域、赤点=遺体発見地点)③軍用設備図版(三脚式機材・格子構造物)が含まれる。これらは国立国会図書館デジタルコレクション原本画像で直接参照されたい。