Part 8(最終巻)の内容:附録(続き・完結)― 「北海道土人」(北海道からの捜索志願者)による捜索支援の全記録。招聘の経緯、到着、雪中装備の特徴、駒込河谷での67日間の捜索活動、幼年者を含む家族ぐるみの参加、感謝状・褒賞の詳細。および本書の奥付(初版:明治35年7月、再版:昭和3年10月)。
【招聘の経緯】
行軍隊遭難の事あるや、聯隊長は一刻も速やかにその蹤跡を確かめ、死体を発見して遺族を慰藉せんと努力した。そのために有利な手段として、北海道土人(北海道の人々)を用いることを発案した。
彼らは勇悍(勇敢かつ強靭)にして説偉(すぐれた体躯)であり、かつ寒気・積雪に経験がある。寒司合官〔参謀合官〕に謀り、第八師團參謀長に議し、参謀長もこれに同意した。北海道庁振国部を通じて函館に書を送り要請した。
郡森村医師・村岡格に嘱し、村岡格が幹旋して人材の募集にあたった。以下の者たちが志願した:
坂是松、從宇三郎、板木力松、明日見米藏、同郡落部村開拓の者たち。勇吉、有輸力藏ほか。
【到着と捜索業務開始】
2月10日をもって北海道より到着し、捜索業務に従事した。
東北地方の積雪は常に数尺を超え、北海道の人々の予想をも及ばざる所であった。
【独特の雪中装備】
下に綿入一枚を着し、股引を穿ち、麻製脚絆を用いた。脚絆は鹿皮もしくは馬皮製。その上に所謂「アッシ」(アットゥシ=アイヌの樹皮衣)なるものを被った。足には鹿皮若しくは(獣の)皮製の靴を穿いた。身体は軽く敏捷にして、活き活きと山野を踏破した。
【報恩の精神と捜索への献身】
彼らは捜索隊本部に至り、隊長に申し上げた:「明治維新以来、北海道の地も皇化に浴し、私どもは幸いに天恩を蒙り太平を謳歌することができました。ただ報恩の機を得ずにいたことをこそ恐れておりました。しかるに今回、不慮の天災により陛下の股肱たる二百余人が空しく積雪の裏に埋没されたと聞き、私どもは哀悼に堪えません。今幸いにして捜索の命を受けました。鴻恩の万一に報ずるはまさにこの時。いかに天険近づきがたくとも、私どもは死を覚悟するのみ。不幸にしてこの地に命を落とすとも、皇澤は長く子孫に及びましょう。死して余栄ありと言うべし、何の憾みかこれあらん」
かくして当地のアイヌを嚮導(案内役)とし、主として駒込河谷の捜索に任じ、独立して事に従わせた。
「第八師團參謀長」は当時弘前に本部を置く第八師団の参謀長。村岡格は北海道・森村(現・森町)の医師で、人材募集の窓口となった。
「駒込河谷の捜索」は最も危険で困難な地域を独立して担当させたことを示し、彼らの雪中技術が高く評価されていたことを物語る。
【2月25日以降の捜索活動】
2月25日より、陸軍歩兵少尉三神定之助が指揮を執った。アイヌの人々はこれを任とし、奮励して屡々危険を冒し渓谷の間を奔走した。幾十仍の絶壁を昇降し、寒冷の溪水を渡り、時に奔流に陥って溺れんとする危殆にも顧みなかった。一身を賭して奉公を効す精神は歴々と見るべく、勇壮豪気・身体強健なるがゆえに三神少尉をして時に一歩を譲らしめるほどであった。ただ未開の人民に常の癖たる少疑心があり、これが三神少尉に困難を感じさせたと言う。
三神少尉の操縦がよかったため、彼らはやがて悦服し、幸いに事なきを得た。
【メンバー交代・幼年者の活躍】
3月旬に辨開勇吉・碓宇三郎・板木力松が家事のため帰郷。代わりに村木國太郎および凮次郎の次子勇次が参加した。勇次は年齢まだ十四歳、躯幹は甚だ小さく一見可憐な小児であったが、幼より父兄に従って山中で狐・狸・熊を狩り、豪膽強壮にして長者を凌いだ。捜索隊にあってその動作は実に壮者をして後に撞着せしめるほどであった。
【67日間の捜索成果】
一行は4月19日に至るまで67日間連続して捜索に従事した。発見した死体11体のほか、行軍隊が遺棄した武器・装具等も多数を回収した。発見位置は悉く駒込川およびその両岸の最嶮難な場所であった。
4月中旬に捜索業務が大いに進捗し、また土人も自個の生活に必要な時期となり多少の思郷の念もあって、4月19日に全く任を解き帰郷させた。
【感謝と褒賞】
かくのごとく土人が聯隊に尽した功績は僅少にあらず、聯隊の待遇は頗る厚かった。給養は一日一人・飯米一升の上に出て、酒はその嗜好により平均一升を与え、成果を挙げた日は殊に増給した。日当は辨開凮次郎・有楡力藏が2圓/日、他は1圓50錢/日。3月上旬に賞金として金円を与え、帰還に際して聯隊長の名をもって各人に感謝状を附与し、あわせて金円を添えた。
3月旬にメンバー交代があり、辨開勇吉・碓宇三郎・板木力松が帰郷し、村木國太郎と凮次郎の次子勇次(14歳)が参加。「小児なりと雖も長者を凌ぐ」という記述は、北海道での狩猟生活を通じて培われた山岳行動能力が軍の正規兵をも上回っていたことを示す。
指揮官は三神定之助少尉(陸軍歩兵少尉)。日当は辨開凮次郎・有楡力藏が2圓、他は1圓50錢。帰還時に聯隊長名で感謝状が附与された。
【北海道志願者の帰還】
さらに彼らの志願により、三神少尉の報告を兼ねて弘前師団司令部に赴く便をもって該所に誘導し、市内を一巡させた。師団司令部・官衛兵營の状况および市街の光景を観覧させたところ、彼らは感泣した。ひたすらその待遇の厚きを謝し、叩頭すること数次。4月21日、函館行きの便船により帰還した。
奥 付
印刷者の菅原源三郎、印刷所の菅原印刷所は青森市鹽町に所在した。
北海道志願者が帰還前に弘前の師団司令部や市街を観覧し「感泣した」という記述は、当時の北海道開拓者が本土の近代都市を初めて見た衝撃を示すと同時に、彼らへの感謝の気持ちの表現でもある。函館航行の便船で帰還したことから、当時の青森〜函館間の連絡船航路が利用された。