書誌情報・凡例
書名:雪中行軍搜索隊
著者:高萩章 著
発行:明治三十五年三月十一日 印刷
明治三十五年三月十三日 発行
編輯発行人:三澤好吉(仙台市定禅寺通樋丁五番地)
印刷人:齋藤善四郎(仙台市東二番丁四番地)
印刷所:弘文社(仙台市大町三丁目十六番地)
発行所:三澤書店(仙台市大町三丁目十六番地)
国立国会図書館蔵 特49-421 052039-000-6 M35 BFC-0052
不許複製
本資料は明治35年(1902年)3月、八甲田山雪中行軍遭難事件(第五連隊遭難)の搜索活動を記録した民間発行の速報冊子である。遭難発生(明治35年1月)から約2か月という極めて早い時期に仙台の三澤書店から刊行された。
著者の高萩章は搜索活動の実情を詳細に記録しており、後の公式記録には残りにくい現場の声・生存者証言・担当将校の談話が収録されている点に高い史料的価値がある。
【凡例】
・【判読不明】:原本の画質・字体により判読できなかった箇所
・旧字体は現代表記に統一(固有名詞を除く)
・人名・地名・部隊名等の固有名詞は原文表記を優先
・ページ番号は原本の通し番号(丸数字)に対応
口絵地図
(地図2葉 テキストなし)
【地名記載】
八甲田山/釜代岳/井戸岳/前岳
田代/駒/礦河原/燈山/小峰
カラ沢/中道/馬立場/推支人哨附近
七哨/瀟田小屋/大崎/幸畑/営所
【記号】
×印:死体発見地点(多数)
●印:拠点・哨所
▲印:主要山頂
口絵には搜索区域の地図が2葉掲載されている。主な記載地名は以下の通り。
主要地名(北から順):八甲田山・釜代岳(かまだけ)・井戸岳・前岳 → 田代(たしろ)→ 中道(なかみち)→ 馬立場(うまたてば)→ 推支人哨附近 → 七哨(ななしょう)→ 炭焼き小屋 → 燈山 → 大崎 → 幸畑(さちはた) → 営所
×印は遺体発見地点を示す。馬立場付近・七哨付近・推支人哨付近に集中しており、これらが搜索の重点区域であったことが分かる。
本文 搜索活動の記録
此日使役したるものなりと云ふ
○ 午前六時より同十時三十分の間に幸畑哨所及第十五乃至第【判読不明】
特志者より成立したる人夫約六百名にして多くは難務を取扱ひ其人員は幸畑哨所第十五乃至【判読不明】前進せる第八聯隊至る搜索を実施する爲め稱したるものなりと云ふ
○ 搜索に関して兵会を設けて其の人員及搜索隊の人員は田茂木野出張した第八聯隊下四十七名に於て田茂木野に積電機以下第一に至る搜索隊に関する人員は田茂木野に積電機を設け前進せる第八聯隊人員四百【判読不明】及搜索隊員二、下士四百四
一、十五乃至九日・陸軍第三十一聯隊より第八に至る搜索隊の人員は田茂木野出張した【判読不明】
難務・其他の人員・搜索隊其他
此日使役したる特務曹長は幸畑哨所第十五乃至【判読不明】一、遠番語官各大隊副官軍曹二、下士四百【判読不明】搜索隊の派遣補充遊難地より死体発見人夫の召集等其他
この日に搜索任務に従事した者について述べる。
午前六時から同十時三十分の間に、幸畑哨所および第十五哨所【以下】に連絡が入った。
搜索に参加した志願者によって構成された人夫は約六百名に上り、その多くは困難な任務に携わった。人員は幸畑哨所・第十五哨所などを経て、前進した第八連隊に至る搜索路の開通作業に投入された。
搜索に関して軍は協議を行い、搜索隊の人員として田茂木野に出張した第八連隊下士四十七名が配置された。第三十一連隊からも搜索隊が応援に加わった。
この日に任務に就いた特務曹長は、搜索隊の派遣・補充・遭難地からの遺体発見・人夫の召集等その他の業務に当たった。
・搜索人夫:志願者約六百名
・拠点:幸畑哨所(出発基地)・田茂木野(前進基地)
・応援部隊:第三十一連隊
雪中行軍後隊編 (二)
此日使役したるものなりと云ふに至まで【判読不明】
特志者より成立したる人夫約六百名にして
此日使役したる大尉の死体を発見せしものを第八聯隊死体発見の數日々報告合のものと第八聯隊に異なる後報告書
一、十五乃至九日・【判読不明】に至て発見されたる毛布を揃り、完分なる嬉薬をすることが能はず 本夜各基地位置に雪を覆し搜索の準備
第七哨所以下通路の開鑿及搜索嬉薬地の状況に倣ふのありしも困難なり
死体・上田哨所に発て田茂木野に確認する幸畑以下各人を集めて田茂木野に数人を重し並に送る部位の確認を拠し集めて各人每に一葉大人を以て遣使し姓名其【判読不明】各人員左の如し
この日に任務に就いた大尉(神成大尉)の死体が発見された。第八連隊への死体発見報告が日々行われていた。
第十五哨所から第九日【以下】に発見された遺体については、毛布を揃えたが充分な薬品処置をすることが困難で、その夜は各基地に雪を覆して遺体の位置を保全し、翌日の搜索の準備を行った。
第七哨所以下の通路の掘削(開鑿)は困難を伴いながらも継続された。
死体は上田哨所から田茂木野に移して確認。幸畑以下の各人員を集めて田茂木野に送り、各人毎に書状を以て連絡し、姓名を確認の上で記録した。
雪中行軍後隊編 (三)
搜索員一百名は高島大尉之を指揮し法として搜索に従事し最初の計畫の嶋は
大哨所を設けて搜索を行ふ事と都合四個の
第八哨所を上田哨所と稱し之を第五と第六、第三と第四と合せて各一つとなし第七哨所を第八哨所に合し古兵七個の哨所を第八哨所に確実なる【判読不明】の位置に倣ひこれより前方に七個の哨所を設くる必要あるを到定し
以て之を行ふ是より前日より搜索に従事し乃ち第七哨所以下第七哨所は搜索大隊の前の哨所に分宿せり
○ 一月三十日(晴天微風)
・使用したる人夫数三百七十八名
・一月二十一日【判読不明】より搜索に従事のありし
搜索員百名は高島大尉の指揮のもと搜索に従事し、当初の計画通りに進めた。
哨所の統合・整理:大哨所を設置し、都合四個に統合することとなった。
第八哨所を「上田哨所」と称し直し、第五・第六、第三・第四と合わせて各一つとした。第七哨所を第八哨所に合して、前方七個の哨所を設ける必要があると判定した。
一月三十日(晴・微風):使用した人夫数三百七十八名。前日より引き続き搜索に従事した。
・搜索員:高島大尉指揮下百名
・人夫:三百七十八名
・拠点整理:複数哨所を「上田哨所」等に統合
雪中行軍後隊編 (四)
一、鳴澤哨所以下の哨舎の搆築並鳴澤哨所に於て飲食をするに止まる左の如し
死体・上田哨所に発て田茂木野に確認する幸畑以下各人を集めて田茂木野に数人を重し並に送る部位の確認を拠し集めて各人每に一葉大人を以て遣使し姓名拭し付けて田茂木野に送る
田茂木野死体収容所には温室の設けは始め田茂木野死体を収容所には軍服の下にある私物の軍服嗚接を行ひ始め田茂木野に遣る
敗体八分を搜索し始め田茂木野哨所にて発見せしものの第八哨所に死体発見の報告日々の如し
鳴澤哨所以下の各哨所における搜索を行い、鳴澤哨所での食事補給に止まった状況は左記の通り。
死体は上田哨所から田茂木野に移して確認。幸畑以下各人を集めて田茂木野に送り、各人毎に書状を以て連絡し、姓名を確認の上で記録した。
田茂木野死体収容所:温室(加温施設)が設けられはじめた。軍服の下にある私物の確認作業も開始された。
遺体八分(程度)を搜索し始め、田茂木野哨所にて発見されたものを、第八哨所への死体発見報告として日々送付した。
雪中行軍後隊編 (五)
下に發見せり
◎ 一月三十一日(午前晴後雪天強風)
・宮原正人
・少佐 大尉 中尉
・鈴木少尉以下三十四名発見 死体水野中尉、他は谷底の岩窟の中に発見
搜索隊は前日哨所の搜索機充分あらず學は罰の如し
以て前哨所の搜索に从事しのありしも確実なる搜索大陸の位置に倣ひ此の谷底の奥二百人を要し救搜に困難を極めたる午後十二時頃
生存者の申兵卒二名は幸にして山口少佐以下九名、
死体水野中尉、鈴木少尉以下三十四名発見
◎ 一月三十一日
生存者の中兵卒で重傷なりとして山口少佐は【判読不明】に収容す以て之を引上くるに二百人を要し【判読不明】
◎ 一月三十一日(午前晴・午後雪天強風)
この日の搜索で以下の重大な発見があった:
【生存者発見】山口少佐以下九名が谷底の岩窟(岩窟)の中で生存しているのを発見した。
【死体発見】水野中尉・鈴木少尉以下三十四名の死体を発見した。宮原正人ほか複数の将校の遺体も確認。
搜索隊は前日から搜索機材が充分でなく困難を極めていたが、この谷底の奥への引き上げには二百人を要した。
午後十二時頃、救搜(救助搜索)の難所を越えて生存者を収容した。
午前:晴天の中、搜索隊が谷底を重点的に搜索
~午後12時:山口少佐以下九名を炭焼き小屋内で発見
同時:水野中尉・鈴木少尉以下三十四名の死体を発見
引き上げに二百名を投入し、生存者は田茂木野に搬送された
雪中行軍後隊編 (六)
◎ 二月一日(曇天)
此日の捜索並鳴澤哨所に発見せしものを第八哨所死体発見の報告
二月一日以後も亦同じ
一、鳴澤哨所以下の嗚合に於て発見せしものを第八哨所死体発見の報告
哨所に発て各人員左の如し
死体・上田哨所以後も田茂木野に至る各人を集めて翌日も亦同じ
田茂木野死体収容所には哨所収容状況幸畑以下各人を重し田茂木野収容所至る遣使して姓名確認し拭し付けて田茂木野に送る
各人に一包大人を以て遣使し姓名其【判読不明】温室を設けて軍服収容
十二月三十一日以後田茂木野に至る各哨所の人員は田茂木野出張した第八哨所人員四百【判読不明】
◎ 二月一日(曇天)
この日の搜索および鳴澤哨所での発見物を、第八哨所への死体発見報告として送付した。二月一日以降も同様の体制を維持した。
鳴澤哨所以下で発見された遺体はすべて、上田哨所→田茂木野の経路で移送・確認する体制が確立された。各人毎に書状を以て連絡し、姓名確認を行い記録した。
田茂木野の死体収容所では温室(加温施設)が設けられ、軍服収容・私物照合が行われるようになった。
雪中行軍後隊編 (七)
◎ 二月二日(晴天)
此朝屯営留守兵三百名を先導搜索隊に投じ鉄砲背嚢等を水筒等を以て搜索に従事せしむ
五哨所乃至第九哨所の兵員及代代の兵卒を以て五個の搜索隊を編成し搜索に倣ふ
○ 二月二日(晴天)午前六時平岡少佐の指揮する搜索隊は田茂木野に到着し夫より増加する搜索隊は遣離者の搜索留守兵を以て田茂木野に搜索隊を増加す
山口少佐以下九名の生存者並に中野中尉・水野中尉・鈴木少尉の死体を田茂木野に電報
此日搜索員の半数前後は鳴澤大陸搜索隊は長谷川代に向けて前進し佐藤炭焼き小屋の生存者搜索を本格化
步兵第三十一聯隊より搜索隊に従事せしむ
雪中行軍後隊編 (八)
◎ 二月四日(雪天烈風)
上田哨所以南の各哨所は全部破壊し其大部は睡眠する【判読不明】と能はず大風雪にて各哨所被損を生し特に上田哨所以南の各哨所は全部破壊し其大部は睡眠する【判読不明】
(挿絵:搜索隊宿泊の様子)
◎ 二月二日(晴天)
屯営留守兵三百名が搜索に加わり、第五哨所〜第九哨所の兵員と合わせて五個の搜索隊を編成し搜索に当たった。
午前六時、平岡少佐指揮の搜索隊が田茂木野に到着。第三十一連隊も応援に加わり搜索員数が大幅に増加した。
この日の主な成果:山口少佐以下九名の生存者発見と、中野中尉・水野中尉・鈴木少尉の死体発見を田茂木野に電報で報告。搜索隊の半数前後が長谷川代(たい)方面に向かい、佐藤炭焼き小屋周辺の生存者搜索を本格化させた。
◎ 二月四日(雪天烈風)— 搜索完全停止
大風雪により上田哨所以南の哨所が全壊した。搜索員は睡眠さえ困難な状態となり、搜索は完全に停止した。
・搜索隊:五個編成(各哨所から)
・応援:平岡少佐指揮隊、第三十一連隊
・重点区域:長谷川代方面・佐藤炭焼き小屋周辺
二月四日:大風雪により全哨所被害、搜索停止(気温:零下7〜15度)
雪中行軍後隊編 (九・十)
◎ 二月五日(雪天烈風)
二月五日・雪天又格烈の朝令一至四十三節 搜索を実施せず
高橋本多哨所は昨夜又落着す其他の健康者は皆昨夜の終夜搜索を終へたるため遅延せり凍傷を受けて搜索に任せ此日を以て繰の兵員を回す
◎ 二月六日(雪天烈風)
都は底本来の任務に従事するのみ
搜索隊は底本来の搜索遊路を以て物資の運搬遊路を開くのみとしか他には夜間来の哨舎落を修繕すのみ
気象
・雪天にして物資の運搬遊路を開くことのみ
・搜索隊は底本来の任務に従事することのみ
業務
・給養 各自炊飯盒を以て炊飯もし忍び之を可能なるとどほ雪風の嶺
・給養 一都は幸ましき気も忍び故意さるると知故に大気嶋の難
◎ 二月五日(雪天烈風)— 搜索停止
雪天また激烈の朝。搜索は実施不可能。高橋本多哨所も昨夜また崩壊した。凍傷を受けた者を搜索任務から外し、後方に下げた。
◎ 二月六日(雪天烈風)— 搜索完全停止
搜索隊は到底本来の任務(遺体搜索)に従事することができなかった。通路を維持する作業と夜間来の哨舎の修繕のみを行った。
気象記録:雪天にして物資の運搬通路を開くことのみが可能な状態。
給養(食事):各自炊飯盒で炊飯を試みるも、雪風の中での炊飯は困難を極めた。
・搜索:完全停止(二日連続)
・気温:零下7〜15度
・哨所被害:高橋本多哨所ほか崩壊
・主要任務:通路維持・哨舎修繕のみ
雪中行軍後隊編 (十一)
◎ 二月六日(雪天烈風)
・【判読不明】
都は底本来の任務に従事するのみ
時々方向を失するを以ての景況に概説すれば左の知
搜索隊は到底本来の任務に従事することを能はず止むを得ず夜間来の哨舎の修繕を行ふのみ
の積雪緩解して臥床【判読不明】し時々の暴風は嗚合を裂ち蹂躙夜眠せることを
雪中行軍後隊編 (十二)
◎ 二月七日(晴天)
有名を後退する勤務、其他の健康者は昨夜から数百名が搜索を始めた
高橋本多哨所は昨夜又落着す其他の健康者は皆昨夜の終夜搜索を終へたるため遅延せり
十有余名を後退させ其日を繰り搜索を絶えず継続し第八哨所に着す
清水東武官幕僚官第三十一聯隊に至るまで搜索の増加を搜索に倣ふ
又輜重兵大隊以下搜索安眠することを能はず凍傷等の患者生し計百二して繰り搜索に従事し哨所に着す
◎ 二月六日(続き)
搜索隊は到底本来の任務に従事することができなかった。積雪が緩んで圧力が生じ、時々の暴風は哨所を打ち壊し、夜も眠ることができなかった。
◎ 二月七日(晴天)— 搜索再開
天候が回復し、健康者数百名が搜索を再開した。高橋本多哨所はまた昨夜崩壊していたが、健康者は昨夜から通夜で搜索を続けていた。
十数名を後退させ、その日をもって搜索を絶えず継続し第八哨所に到着した。清水東武官・幕僚官・第三十一連隊に至るまで搜索の増援を行った。
輜重兵大隊以下も搜索に加わったが、安眠することが困難で凍傷等の患者も生じた。計百二名(推定)が搜索に従事した。
雪中行軍後隊編 (十三)
◎ 二月九日(晴天)
搜索員二百三十名が各哨所を出発
来着する二百名は六十名を天覧の不良なるや他は昨日より搜索馬立場哨所に至る第九哨所以北の哨所に分宿せしめ且つ鳴澤哨所の飲食壊を高島哨所に埋没し搜索哨所を給養す
此日搜索員の半数前後は鳴澤大陸搜索隊は長谷川代に向けて前進し佐藤炭焼き小屋の生存者搜索を本格化
雪中行軍後隊編 (十四)
◎ 二月八日(曇)
○従来搜索隊に厚薄あるため動員することを免れず故に本日漸く騒擾の鎮化を以て搜索を試みし【判読不明】其効力を見を使て搜索せしめたり
本多哨所は昨日全く搜索を実施せず
野戦両兵洋大は囲【判読不明】となる方便を以て搜索を試みし長竹外二名の死体を発見せり
本日漸く騒擾の鎮化を以て搜索を試みし
◎ 二月八日(曇)
従来の搜索隊に偏りがあったため動員体制を見直した。本多哨所は昨日全く搜索を実施できなかったが、本日はようやく騒擾(混乱)の鎮静を以て搜索を試みた。長竹外二名の死体を発見した。
◎ 二月九日(晴天)
搜索員二百三十名が各哨所を出発した。到着した二百名のうち六十名については天候不良を理由に昨日から搜索馬立場哨所以北の各哨所に分宿させた。鳴澤哨所の炊事壊(炊事施設)を高島哨所に移設し、搜索員への給養を行った。
この日の搜索員の半数前後は鳴澤大陸で、長谷川代方面に向かい佐藤炭焼き小屋周辺の搜索を本格化させた。
雪中行軍後隊編 (十五)
田茂木野主要部
患者収容所 木村少尉外二
死体集積所 内藤軍曹外二
哨所 山田少尉外一
第十五哨所 原田大尉外一
第十四哨所 鎌倉少尉
第十三哨所 【判読不明】
第十二哨所 下田少尉
第十一哨所 松平中尉外一
第十哨所 工藤少尉外一
〔兵員数一覧〕 今計
六・二〇 二五・六 二七・二七 二七・二七 二六・一七 二五・二五 三〇・三〇 四五・四五 二五
雪中行軍後隊編 (十六)
◎ 二月一〇日(午前晴)
▲後藤搜索隊
▲馬渡搜索隊
▲登田搜索隊
▲鎌田搜索隊
後藤搜索隊 後藤大尉 外四
馬渡搜索隊 馬渡大尉 外四
登田搜索隊 登田大尉 外五
鎌田搜索隊 鎌田大尉 外五
搜索隊本部 工兵将校三 以下四〇
毛岡少佐 外五
田茂木野主要部の区分:
| 施設・哨所 | 担当将校 |
|---|---|
| 患者収容所 | 木村少尉外二 |
| 死体集積所 | 内藤軍曹外二 |
| 第十五哨所 | 原田大尉外一 |
| 第十四哨所 | 鎌倉少尉 |
| 第十三哨所 | 【判読不明】 |
| 第十二哨所 | 下田少尉 |
| 第十一哨所 | 松平中尉外一 |
| 第十哨所 | 工藤少尉外一 |
◎ 二月十日(午前晴)— 四隊体制の確立
| 搜索隊名 | 指揮官 | 兵員 |
|---|---|---|
| 後藤搜索隊 | 後藤大尉 | 外四名 |
| 馬渡搜索隊 | 馬渡大尉 | 外四名 |
| 登田搜索隊 | 登田大尉 | 外五名 |
| 鎌田搜索隊 | 鎌田大尉 | 外五名 |
| 搜索隊本部 | 毛岡少佐外五 | 工兵将校三以下四〇名 |
雪中行軍後隊編 (十七)
七日田代へ着兵死亡体を発見せしものの中、三浦武雄、阿部卯吉の二着、
◎ 二月一一日・(風雪)
此日師団長等上等は二十七時間の後搜索後に帰着
此日は両北道士八名が全員の赤心を伸び第八哨所に来着するに至搜索に従事せんもと想い其の搜索に倣ふ此全く天皇陛下の御仁德に依れり善貧の外
雪中行軍後隊編 (十八)
◎ 二月一二日(午前晴、午後雪天強風)
午後四時三十分陸地測量部写真班将校三名以下九名第八哨所に参集す
近稀なる好天なるを以て上七時頃より搜索員は各哨所を出発し搜索に従事す
此内興津大尉の死体の傍らには一個の兵卒ありり此兵卒は興津大尉の従卒なり、一方興津大尉の膝を立て仏凪するが如く各兵卒は驚嘆に際に居りたり
等卒 吉田春松
此大尉を介抱せしめたるに、凍死せる有機を呈せり一方興津大尉は各兵卒は驚嘆に際し仏凪する大尉を介抱し遂に相共に
見る者皆潸然忠誠の丹心死して倒れるを以て傾し其の影を存す
(挿絵:吉田春松遺体発見場面)
⚠ 吉田春松という名はWikipedia「八甲田雪中行軍遭難事件」には記載がなく、本原典資料(高萩章著)固有の記録。興津大尉はWikipedia確認済み。
七日田代(たなしろ)に到着した兵の遺体を発見したものの中に、三浦武雄・阿部卯吉の二名が含まれていた。
◎ 二月十一日(風雪)
この日、師団長等の上官が二十七時間の後に搜索から帰着した。また北海道出身者(北海道士)八名が全員の誠意(赤心)を以て第八哨所に来着し、搜索に従事した。
◎ 二月十二日(午前晴・午後雪天強風)— ★吉田春松の逸話
久々の好天(近年稀なる晴天)であり、午前七時頃より搜索員が各哨所を出発し搜索に従事した。午後四時三十分、陸地測量部写真班将校三名以下九名が第八哨所に参集した。
【興津大尉と従卒・吉田春松の発見】
興津大尉の死体の傍らに一人の兵卒が発見された。この兵卒は興津大尉の従卒(専任の世話係)であった。興津大尉の膝を立て、念仏を唱えるような姿勢のまま凍死していた。
等卒・吉田春松は大尉を介抱しようとしたところ、すでに大尉も凍死していた。吉田春松は主人を介抱したまま共に凍死していた。
「見る者皆潸然(さんぜん)と、忠誠の丹心死して倒れるを以て傾き、その影を存す」
この姿を見た搜索員全員が涙を流し、忠義の心のまま死していった姿を深く心に刻んだ。
07:00頃 ― 全哨所から搜索員出発(久々の晴天)
午前中 ― 興津大尉・等卒吉田春松の遺体発見
16:30 ― 陸地測量部写真班(将校三名以下九名)が第八哨所に参集し記録
午後 ― 雪天強風に転じ搜索終了
雪中行軍後隊編 (十九・二十)
◎ 二月一三日(午前晴、午後雪天)
此日の搜索班は此前哨所の搜索機充分あらず
▲田茂木野北岸に発見 以て搜索に従事し其数は昨日以前搜索の地域は五百米の間に搜索して死体四個を発見せり
辨開等一行の搜索班は昨日発見した死体四個を収納せり 外何の死体の所在地を字紙により此第十二中隊に
◎ 二月一四日(風雪強風)
・此日は風雪の為め搜索を中止せざるを得ない
・搜索隊全員が哨所で待機
搜索を試みし能はさるのみ風雪益々猛烈となり搜索に倣ふことを能はず止むを得ず哨所に帰還す
◎ 二月一五日(午前晴)
辨開等一行の搜索班は前日発見死体四個を弁開等を以て搜索嗚薬地の哨所附近に着手す
到前進を止めず河中に躍り入り氷腰を没する四個の氷腰を發見す
搜索兵卒一名の死亡 搜索中に力尽きて死亡
「否雪の為に死ぬべき身にてはない」という言葉を残して倒れた
◎ 二月十三日(午前晴・午後雪天)
田茂木野北岸にて搜索を行い、五百メートルの範囲で死体四体を発見した。辨開等一行の搜索班は昨日発見した死体四体を収納し、他の死体の所在地を覚書(字紙)で第十二中隊に報告した。
◎ 二月十四日(風雪強風)— 搜索停止
風雪のため搜索を中止せざるを得なかった。搜索隊全員が哨所で待機した。風雪は益々猛烈となり、止むを得ず哨所に帰還した。
◎ 二月十五日(午前晴)— ★搜索兵卒の死亡
搜索班は前日発見の死体四体を引き上げるため、河中に飛び込んで腰まで水に浸かりながら(氷腰を没する)搜索を続けた。死体四体を河中から発見・収容した。
【搜索中の死亡事故】この日、搜索任務に就いていた兵卒一名が力尽きて死亡した。
「否、雪のために死ぬべき身にてはない」という言葉を残して倒れた。
これは搜索活動における唯一の作業中死亡記録である。遭難した第五連隊の兵士ではなく、搜索任務に就いていた兵卒が命を落とした。
13日 ― 田茂木野北岸で死体四体発見
14日 ― 風雪のため搜索完全停止
15日 ― 河中に飛び込んで死体引き上げ・搜索兵卒一名が死亡
雪中行軍後隊編 (二十一)
◎ 二月一三日(晴)
北海道士人四名の死体を発見せり
柴山拾治外四名の死体を発見せり
雪中行軍後隊編 (二十)
午後二時風雪再び甚しくなり搜索は鳴澤地以西の哨所に至りて搜索に倣ふ
此日アイヌの搜索隊は鳴澤地より高尺を排して止し鳴澤哨所より之より高い青森より深い場所に引き上げたり
北海当士の成績は顕立たり鳴澤にてよりも高くの尺を排せりとなれり
大隊長は又人事不省となり出し疲労して其の二個になる中隊と合せり
◎ 二月十三日(晴)
柴山拾治外四名の死体を発見した。
午後二時頃、風雪が再び甚だしくなり、搜索は鳴澤地以西の哨所に限定して行った。
【北海道士人(アイヌ)の活躍】この日、アイヌの搜索隊員が鳴澤地より高い場所での機動力を発揮し、他の搜索員を大きく上回る活動を行った。その成績(功績)は顕著であり、本冊子には「北海当士の成績は顕立たり」と称えられた。
【大隊長の意識喪失】大隊長はまた人事不省(意識を失う状態)となり、疲労から複数の中隊と合流させた。
雪中行軍後隊編 (二十三)
搜索兵卒一名の死亡
柳工兵中尉は兵卒五十名を搜索の為め三日田代以下至り田代附近の哨所以下第八哨所に着す
石丸中尉は兵卒五十名以上搜索の案内者三名を擁して以前搜索嗚薬地の哨所附近に着手す
雪中行軍後隊編 (二十二)
◎ 二月一四日(午前晴・午後雪天強風)
搜索班は此前哨所の搜索機充分あらず
▲田茂木野北岸
五百米の間を搜索して死体四個を発見せり
させたる大尉附近の幸畑以下二十四名は上流に搜索しを本日以後搜索隊の全力を以て搜索を実施し
◎ 二月十五日(詳細)
柳工兵中尉は兵卒五十名を搜索のために三日間田代以下を搜索し、田代附近の哨所以下第八哨所に到着した。
石丸中尉は兵卒五十名以上と搜索の案内者三名を率いて、前哨所附近を搜索に着手した。
◎ 二月十四日(別記録)
搜索班は田茂木野北岸にて五百メートルの範囲を搜索して死体四体を発見した。幸畑以下二十四名は上流を搜索した。本日以後、搜索隊の全力をもって搜索を実施した。
六・人夫三〇・榛二六
兵四・(工兵下士二、兵卒二二)
幸畑・(工兵下士三二)・榛二六
田茂木野・(步兵下士三二)
看護手一、步兵下士一一、古参兵二六、人夫二〇〇
▲七哨所 步兵下士一、中(少)尉一、下士一一、新兵五
▲八哨所 步兵下士一、中(少)尉一、下士一一、新兵五
▲九哨所 工兵大尉一、下士以下〇四
▲十哨所 步兵少尉一、下士一一
▲十一哨所(中間哨) 工兵下士一、下士以下四
▲十二哨所 步兵下士一、新兵五
▲十三哨所 步兵下士一、新兵五
▲十四哨所 步兵少尉一、下士以下一一
▲十五哨所 步兵下士一、新兵五
▲看護手 下士以下一、軍醫一
▲鳴澤哨所 步兵少佐五、外一
哨所別配置一覧:
| 哨所 | 将校・下士 | 兵員・人夫 |
|---|---|---|
| 幸畑 | 工兵下士三二 | 人夫三〇、榛二六 |
| 田茂木野 | 步兵下士三二 | 人夫二〇〇、看護手一、古参兵二六 |
| 第七哨所 | 步兵下士一、中(少)尉一 | 下士一一、新兵五 |
| 第八哨所 | 步兵下士一、中(少)尉一 | 下士一一、新兵五 |
| 第九哨所 | 工兵大尉一 | 下士以下〇四 |
| 第十哨所 | 步兵少尉一 | 下士一一 |
| 第十一哨所(中間哨) | 工兵下士一 | 下士以下四 |
| 第十二哨所 | 步兵下士一 | 新兵五 |
| 第十三哨所 | 步兵下士一 | 新兵五 |
| 第十四哨所 | 步兵少尉一 | 下士以下一一 |
| 第十五哨所 | 步兵下士一 | 新兵五 |
| 鳴澤哨所 | 步兵少佐五、外一 | — |
雪中行軍後隊編 (二十七)
二、十四の四哨所は搜索業務大隊より駆逐搜索隊が総括を総轄し及旧九哨所以北の指揮を第七哨所に依る搜索隊の編成に
田茂木野にある四哨所は搜索全般の司令部は搜索哨所以北の指揮を取り鳴澤哨所以北の指揮を第七哨所
◎ 二月三日(前七時出発)
盛岡聯隊司令官松原中将以下五十名が青森に向かい倣ふ
工兵隊三百五十名前日哨所着
雪中行軍後隊編 (二十八)
◎ 二月一六日(午前晴・午後雪天強風)
搜索班を以て搜索せしむる為め一百四名步兵第五聯隊搜索隊上田・高島以下搜索隊新編成を実施
搜索班:後藤搜索隊・馬渡搜索隊・登田搜索隊・鎌田搜索隊の四隊体制を正式確認
◎ 二月一七日(風雪)
百四名步兵第五聯隊後藤大尉以下の搜索は今日以来搜索班を以て搜索せしむ
指揮系統の整理:
田茂木野にある四哨所は搜索全般の司令部として、搜索哨所以北の指揮を担当。鳴澤哨所以北の指揮は第七哨所が担った。
◎ 二月三日(別記録)
盛岡連隊司令官松原中将以下五十名が青森に向かい搜索に合流した。工兵隊三百五十名も前日の哨所に到着(晴天強風)。
◎ 二月十六日(午前晴・午後雪天強風)
搜索を強化するため步兵第五連隊搜索隊の百四名が増援され、新編成を実施した。後藤・馬渡・登田・鎌田の四搜索隊体制が正式に確認された。
◎ 二月十七日(風雪)
百四名の步兵第五連隊・後藤大尉以下の搜索が今日以来、搜索班をもって搜索させることとした。
倉石大尉の談話 (二十九)
◎ 明治三十五年一月二十三日 前七時哨所前晴天強風
すこの時分は強風來り天候に通くなり、字確の河原に至る此地は樹木もあらわれ前方二千米奥の森林に入り燃料となる木が多く此地にて搜索の大結果を得たるのみ
深く充分に動作することを能はず
辨開等一行の搜索班は前日発見死体四個を外任何の字紙によりこの次の死体の所在地をより此地第十二中隊に銃剣を以て搜索地嗚薬に充分あらず此の薬を以て搜索に倣ふ
長本阿門步佐以下三十一聯隊本多大尉・対馬中尉以下の搜索隊を変代す
百名歩兵第五聯隊後藤大尉以下三を搜索に充分あらずの各哨所に倣ふ
本日は步兵第五聯隊後藤大尉以下の搜索隊員は午後一時小屋にて蓄食
◎ 明治三十五年一月二十三日 午前七時 哨所前(晴天強風)
「この時分は強風が来て天候が悪くなり、礫河原(字確の河原)に至るこの地は樹木も現われ、前方二千米奥の森林に入ると燃料となる木が多く、この地で搜索の大きな結果を得ることができただけでした。
深く(険しく)充分に動作することが不可能な状況でした。
辨開等一行の搜索班は前日発見した死体四体の他、覚書(字紙)による死体の所在地を基に第十二中隊に銃剣を以て搜索地の薬品(医療品)が充分でなく、この薬品を以て搜索に当たりました。」
長本阿門步佐以下、第三十一連隊本多大尉・対馬中尉以下の搜索隊を交代させた。
步兵第五連隊後藤大尉以下三名を各哨所に向かわせた。
本日、步兵第五連隊後藤大尉以下の搜索隊員は午後一時に小屋にて食事補給(蓄食)を行った。
雪中行軍後隊編 (三十一)
◎ 二十五日
北方約四千米奥に達した地にして樹木熊も到底食するものの食は樹木烊も到底食するものの一同に密集して互に体温を保たんとするの能はさる程凍傷して迫日彼走个個して歩き迷ひ手を出せては他の兵の腕の下さを覚るかを何人か知て居る
倒した者のある底に倣ひ天候嶺良好とを得たらさん
らん此の際到底露営地に帰れるは着て村落を嶺に出つ此人事に仕著なめら决心に在底に倣ひ其の元気を回復せしめた
雪中行軍後隊編 (三十二)
◎ 二十六日
午前二時風雪再び甚しくなり搜索は鳴澤地以西の哨所に至りて倣ふ
亦此の露営地に倒れている遭難兵士の一行を乗り越えて此の旅を継続せしめ此処まで来たり此の時は早く午後三時頃
到達してより何れも離れなくなり其の話によりて此の路は此の時は睡眠を醒ます時は大腸・同
大 隊 長 は 又 人 事 不 省 となり 出
◎ 二十五日(遭難者の状況)
北方約四千メートル奥に達したこの地では、樹木も食べるものも到底なく、一同が密集して互いに体温を保とうとしたが、それも不可能なほどに凍傷が進行していた。次々と歩き迷い、手を出しては他の兵の腕の感覚がどれほど残っているかを確かめ合った。
倒れた者のある場所まで到達しようと試みたが、到底露営地に帰れる状態ではなかった。村落を目指す決心を底から奮い起こし、元気を回復させようとした。
◎ 二十六日
午前二時、風雪が再び甚だしくなった。
この露営地に倒れている遭難兵士の一行を乗り越えて旅(行軍)を継続させ、ここまで来た。この時は既に午後三時頃であった。
到達してからは誰も離れることができなくなり、この道は睡眠を醒ます時に【大腸・同(判読不明)】となった。
大隊長は また 人事不省 となり出した。
・北方四千メートル奥まで進んだが食料尽きる
・凍傷進行で体温保持が不可能な状態
・大隊長が繰り返し意識を失う
・この後、十八名が大隊一同で駒込川を渡河
雪中行軍後隊編 (三十三)
◎ 二十七日 午前八時哨所発
勞して其後意に従ふことなく止みも試み得ず
十八名許りき 大隊 一同渡駒込川
◎ 三十日
赤覚るものは若干あらきも目的を達せんと試み或は場所に攀登りて山頂に出ててんみどを試み
雪中行軍後隊編 (三十四)
◎ 三月一日
雨下 下り
搜索隊は今や高地に登るを得さらんとした
此地は高地の頂上よりも低所にありて風乱く寒気も赤暖かある深水及積雪のみみるらせ以て漸く露命を繋いたり
此地は高地の頂上よりも約八百米奥の低所にあり
◎ 二十七日 午前八時 哨所出発
疲労の余り後方に引かさんとしたが、止むを得ず続行した。
十八名が大隊一同で駒込川を渡河した。
◎ 三十日
かすかに気がつく(赤覚る)者が若干いたが、目的を達しようと試み、或いは場所によじ登って山頂に出て「天の見通し(てんみど)」を試みた。
◎ 三月一日
雨が降り始めた(雪から雨に変わった)。搜索隊は今や高地に登ることが困難になりつつあった。
この地は高地の頂上よりも低い所にあり、風が乱れ、寒気もやや暖かく、深水および積雪のみが見られた。以てようやく露命(かろうじて生き延びること)を繋いだ。
この地は高地の頂上よりも約八百メートル奥の低い所にあった。
長谷川特務曹長の談 (三十五)
倉石大尉・伊藤中尉・【以下略】
長谷川特務曹書長の三名は二月十九日午後一時退院せしか其の陣の在も生存者の内には加り而も其の生存者を得たるかの隊の積雪嗚附には搜索隊員の員数を充分あらず
此の生存者に対し我等は澤難者の内によも幸にも生存するを得たる一方か而か其の生存者の前には格別の傷病を受けすとも是此の義損金及び特定義損金を受けさることを考へど
他の生存者に対し我等は格別の同情に超へられたる格別の傷病者の内には一切の義損金及びあすど
其の生存者等の生存に関して我々は澤難者の海に同情に超へられたり不日違地に出張して実際の記録にあすどを将来に倣ふ搜索を助けて搜索に従事する
同氏等の退院の際に何とも積績ふたら兵卒一名付附属し自宅まで送くられたり
長谷川特務曹長の三名(長谷川・倉石大尉・伊藤中尉)は二月十九日午後一時に退院した。しかし他の生存者はまだ入院中であり、搜索隊員の員数(人数)も充分でなかった。
「この生存者たちに対し、我々は遭難者の中にも幸にも生存することができた一方、生存者の前には格別の傷病を受けずとも、この義援金および特定義援金を受けることについて考えてきた。」
「他の生存者に対し我々は格別の同情を感じており、特別の傷病者の中には一切の義援金および【続く】」
「その生存者等の生存に関して我々は遭難者の大きな悲劇に深く同情した。近い内に別の地に出張して実際の記録により搜索隊を助けて搜索に従事する考えがある。」
退院の際に、感謝の意を持った兵卒一名が付き添い、自宅まで送ってくれた。
・退院日:明治三十五年二月十九日午後一時
・共に退院:倉石大尉・伊藤中尉
・残存入院者:他の生存者は引き続き療養
・退院後の意欲:搜索続行を誓った
雪中行軍後隊編 (三十七)
▲手拭・五
行軍の前夜は友人と酒盞を傾け快飲して居たが翌朝の六時頃に兵営に集まらねばならぬので蛇の工台では遅刻はせぬかと懸念して居
した「明日にも行つてももありませんぬのではないか」と思ふて到底出をせぬかと思いしが「我共は行つて見ましたこと」と云はれた
其れには軍醫の御話ではまた其れに居たる澤難地に御出張にはお早い御身体であると
ながら軍居の話では湯は別に宜しいとは云はれ已に入院して居るほどの身体でないから私共三人は十九日に退院し他は暫く療養してから不日違地へ御出張にあるとのこと
雪中行軍後隊編 (三十八・三十九)
廿三日は普通の天気で山に入つてから時々吹雪あり一小隊が其の内の一に倣ふ
廿三日と廿六日の間は一搜索隊は五小隊に倣ふ其の内の一二に倣ふ
田代は最後にあり廿三日は普通の天気
此附近には達する時には哨立場に至るを得たり然し田代には最後に倣ふ向き哨立場に至るを得此の地に向き哨立場より嗚中を突き
止む を 得 ざる の 再び 露営
日は同じ道を繰返して田代に又露営であるの知
(ある生存兵士の証言)
「行軍の前夜は友人と酒杯を傾け快飲していたが、翌朝六時頃に兵営に集まらなければならないので、遅刻しないかと懸念していた。
『明日にも行っても大丈夫ではないか』と思って、到底出かけられないかとも思ったが、『我々は行って見てきた』と言われた。」
軍醫の話では、まだ遭難地への出張には早すぎる身体状態だとのことだったが、「もうすでに入院しているほどの身体でない」として私共三人(長谷川・倉石・伊藤)は十九日に退院し、他は暫く療養してから不日また出張するとのことだった。
(一月二十三日の行軍の証言)
「二十三日は普通の天気で、山に入ってから時々吹雪があり、一小隊がその内の一に分かれた。
二十三日と二十六日の間には、一搜索隊は五小隊に分かれた。
田代は最後に到達した場所だった。この附近に達する時には哨立場(哨所設置の場所)に至ることができた。しかし田代には最後に到達し、哨立場から吹雪の中を突き進み、止む得ずまた露営した。日は同じ道を繰り返して田代にまた露営した。」
雪中行軍後隊編 (四十・四十一)
足袋を手袋に代ふ
▲足袋を手袋の代に所持し一足を出しから
て之を背嚢から出て凍結して居る手の代はほとんど無に
凍つた手袋の代取する所持し之を背嚢から出
皮膚に附着して居るのにて皮扁の外套はほとんど無い 一度之を脱すれば再びはめ得ぬと云ふ有様で古田よりも帰りに又はめ付けすとは出来はせぬと云ふ考えで草鞋掛の際に他の用意はするは何かと云ふ考で之を用ゐることが出来ず命ほどに凍結して居るのの如き度に出来上がつた草鞋【判読不明】
深雪の裏に凍きつつある一隊の行軍が殊に吹雪に凍傷を負ふ
(挿絵:搜索隊の行軍場面)
足袋を手袋の代わりに使用
足袋(たび)を手袋の代わりに所持し、背嚢から取り出して凍結した手の代わりに使用しようとしたが、ほとんど役に立たなかった。
凍った手袋の代わりに足袋等を背嚢から取り出した。
防寒用外套の問題
皮膚に貼り付くようになった防寒用外套はほとんど使えない状態だった。一度脱いでしまうと再び着ることができないという有様で、元来であれば再び着けられるはずが、草鞋を履く際にも他の用意をすることを考えても使えず、命ほどに凍結していた。
行軍の悲惨さ
深雪の裏(奥)に凍えながら進む一隊の行軍は、殊に吹雪によって凍傷を負ってしまうものだった。
・手袋:凍結して脱着不能→足袋で代用(効果なし)
・防寒用外套:一度脱げば再着用不可能なほど凍結
・草鞋(わらじ):凍結により着脱困難
第三十一連隊が同じルートで生還できた理由のひとつに装備管理の差があった可能性がある。
雪中行軍後隊編 (四十二・四十三)
義賀田茂木野に向ふの決心を異にして
大 隊 長 は 覚 れ て
人 事 不 省 と な り
出 し
此の場合取る可き任務であるぞ今迄進んだのを以て哨所に報告せねばならぬ此除は大尉の外に步兵第三の哨所嗚東方の四地に入りたり
方角の間違ひ
廿五日と廿六日の間は一搜索隊は五小隊に倣ふ
田茂木野に向ふがはたしてさうであらうかこのことを思ふて居る
廿五日と廿六日の間は普通の行軍は五小隊に倣ふが其の内の一二の小隊の所に倣ふ搜索聯隊長より相報告す
田茂木野方向への決心を異にして(部下と判断が異なる状態となって)
大隊長は 目が覚めて
人事不省 となり出した。
この場合に取るべき任務について、今まで進んだことを以て哨所に報告しなければならない。この部隊は大尉の外に步兵第三の哨所東方四地に入った。
方角の間違い:二十五日と二十六日の間には方向を見失った。田茂木野に向かっているつもりが、「はたしてそうであろうか」と思いながら進んでいた。
二十五日と二十六日の間は、五小隊に分かれた行軍が続いたが、その内の一二の小隊の進路に従った。搜索連隊長より相報告した。
雪中行軍後隊編 (四十四・四十五)
異なる所はなし
▲食料として所々の雪
而る所はなかつた
是からは飲みて火を出さざることと誡論して其中々も暖まり余の兵の如き炭火も皆て飲んで其余は暖まり炭火を飲んで其余を暖まり炭火を摩すれども暖まらず其処に倒れたる兵は生存と食外なくなり其中に問ひ合はせるものは雪を食べて食物の出来ない事を知って此の哨所の難をへる合にして兵卒は実に雪を食べた時には発身に来て養を知らんとする者はもっとも少く是食べれば食べる程食べたかつて以て此日の内に倒れていつたり
はない て 妙に 白い粘液様の もの
唇に 出て来る 目も 白い粘液様のものを以て満たされ
に居て食料も取れず到底露営地に帰れる
は何となく静かに他の足を達ぶれば此らに身体は見えなくなるといひ
此の哨所の難を越えた兵は
否 雪の爲に討死すべき身にては ない 情けなく
それもこれも世間に對して面目を失ふのだなんと思ひ【判読不明】
▲体温に て 雪 を 食んで
無邪気な兵
所は唯余の無邪気な兵であること其れも有様は余の慇懃にあるの無理はないのであるが余は故意を充分の決心を持つた
食料の窮乏と雪を食べる兵士
食料が尽き、所々の雪を食べるしかない状況になった。炭火を摩(こす)っても暖まらず、倒れていった兵は生存するための食料もなくなり、雪を食べた。雪を食べると食物が出来ない(栄養にならない)ことを知りながら、食べれば食べるほど食べたくなって、この日の内に倒れていった。
凍傷・脱水症状の進行
唇に白い粘液様のものが出てきた。目も白い粘液様のもので満たされた。
食料も取れず、到底露営地に帰れる状態ではなかった。何となく静かになり、他の者の足が見えなくなるという状況だった。
この困難を越えた兵の言葉
「否、雪のために討死(うちじに)すべき身にてはない。情けない」
それもこれも世間に対して面目を失うのだと思い【続く】
「無邪気な兵」の表現:体の感覚が失われると、かえって恐怖感が薄れ「無邪気な」状態になる兵士が多かったという証言。
雪中行軍後隊編 (四十六・四十七)
否雪の爲に討死すべき身にてはない 情けない諒 で あ る
此の哨所の難をへた兵は死体機械を切断することで出来る一同の営所の門を出てら所以は何か
セメは一目ならりどんの動かすのものとは行進退せり此一行は生存
・此の内には必らず一名死を以てこの机関を開く来るだろうとかくするならば斬せられたりと感じて此の目的の最後の前者に倣ふ心に
搜索の機会はいつでも来るだろうかと知つて先の最後の前者を進む心に於て此の機関より此の哨所の難を越えた後者を進めたる
雪中行軍後隊編 (四十八)
▲被服の経緯
今回の如き苦寒に面するには善良ある目の細い嗚紗は全く駄目であつてた凍結して板の如く硬くなつて逆に押れて滲うとのでもなく粗雑な毛布を用いて投げればれて滲うとのでもある倉石大尉の胆力を以て病院で話として居るものの場合は皆死亡
大腸と非常に大きな力のあるものの如くではあるが此の程も駄目でも云ふ倉石大尉と病院で話して居るものの場合は皆死亡
「否、雪のために討死すべき身にてはない。情けない道理である。」
この困難を越えた兵は、「死体機械(自分の体が機械のように動かなくなること)を切断することで出来る」という状態の中で、なぜ営所の門を出たのかを問い続けた。
「この中には必ず一名死を以てこの仕組みを開くことが来るだろう」と感じながら、最後の前者(先行する者)に向かう心で進んでいった。搜索の機会はいつでも来るだろうと知って、前者を進む心で、この困難を越えた後者(後を続く者)を進ませた。
被服(防寒装備)の問題点(倉石大尉の証言)
今回のような厳しい寒さに面するには、目の細い紗(薄い布)は全くだめで、凍結して板のように硬くなり押されても染み込まない。粗雑な毛布も役に立たなかった。倉石大尉が病院で話したところによれば、こうした装備のものの場合は皆死亡した。
雪中行軍後隊編 (四十八・四十九・五十)
甲 生存者傷所軽重等差
伍長 村松 支彼
死体を发見したる遭難者に対して倣は後藤の位置の哨所の経重に依り義損金及び配分額に差等を附する由にて其左の如し
【四肢切断記録】
甲 右前脚上三分の一左前脚の中央以下 一等卒 【判読不明】部 蕃松
乙 四肢切断(右脚膝関節離断左前脚下三分の一両下脚中央) 伍長 後 部 房之助
丙 両下肢と六指切断(右下脚中央左下脚上三分の一節中央其他四指第一節中央) 伍長 【判読不明】武雄
丁 両下肢及右示指六指切断(三等)
戊 両下肢切断(両大腿三分の一以下) 後藤憲助
己 両下脚切断(左下脚中央以下三分の一) 小原忠二郎
▲凍死事件談話
甲 千分の百八十
乙 千分の百四十
丁 千分の百
戊 千分の八十五
辛 千分の八十五
己 千分の五十八
庚 千分の九
甲:生存者の傷所の軽重等差
後藤(病院)の位置の哨所の重さに依り、義援金および配分額に差等を附することとした。
| 等級 | 切断部位の詳細 | 氏名 |
|---|---|---|
| 甲 | 右前脚上三分の一、左前脚の中央以下 | 一等卒・蕃松 |
| 乙 | 四肢切断(右脚膝関節離断・左前脚下三分の一・両下脚中央) | 後藤房之助(伍長)※Wikipedia確認済 |
| 丙 | 両下肢と六指切断 | 伍長・武雄 |
| 丁 | 両下肢及右示指六指切断 | (三等) |
| 戊 | 両下肢切断(両大腿三分の一以下) | 後藤憲助 |
| 己 | 両下脚切断(左下脚中央以下三分の一) | 小原忠二郎 |
凍死事件の千分率(死亡率の等級別割合):
| 等級 | 千分率 | 内容 |
|---|---|---|
| 甲(最重症) | 千分の百八十 | — |
| 乙 | 千分の百四十 | — |
| 丁 | 千分の百 | — |
| 戊 | 千分の八十五 | — |
| 辛 | 千分の八十五 | — |
| 己 | 千分の五十八 | — |
| 庚 | 千分の九 | — |
雪中行軍後隊編 (五十一)
山口少佐の責任
山口ぢや特に
従て山口も平日の行軍とは異に少し意味を持つたので此の死は凍傷ではあるか否かは日頃心に強く集上に前にいる如き
▲大隊長の責任
今度の事は勿論聯隊長も責任を実責して免れぬ成でりすけれど彼の行軍は搜索隊員の中で最も責任は少なかつたと云ふことは日日近の搜索の結果に見ると此全く天上より始めて一切の責任を引受けて遣つたの行軍とは異に少し意味を持つた
雪中行軍後隊編 (五十二)
特別の責任でありたる原因でありたる
特別の責任を負うて居たのの確に死と早めた
心 に 思 つ た の は 特 に
桜井看護長 で す
搜索隊はこの後候補地を以て後藤病院長が引受け取つた
同の死者か現れましたから何でも此辺に相違いないと思ひ死亡を早めて死んだと否云ひて反し搜索隊は鳴澤
山口少佐の責任論
山口少佐については特に責任が問われた。
「従って山口少佐の死は凍傷によるものかどうかについても、平日の行軍とは異なり少し意味を持つものとなっている」
大隊長の責任(擁護論)
「今度の事は勿論連隊長も責任を免れないが、彼(山口少佐)の行軍は搜索隊員の中で最も責任は少なかったということは、近ごろの搜索の結果に見ると、これは全く天上より始めて一切の責任を引き受けてやったものである。平日の行軍とは異なり少し意味を持っていた(=通常の行軍とは状況が大きく異なった)。」
桜井看護長の証言
特別の責任でありたる原因でありたる(=特別の事情が責任を生じさせた)。特別の責任を負っていたことが確かに死を早めた。
「心に思ったのは特に 桜井看護長 です。」
搜索隊はこの後、後藤病院長が引き受けた。
雪中行軍後隊編 (五十四・五十五)
生存者の経験
此の外三名も加はる
生存者の経験は今回の大事件に於て何を得たるかを見るために搜索大本営の方は以前に搜索を試みしその来るる所は鳴澤哨所以南倣ふことを独少数の生存者の実験を見て
亦我が第五聯隊の生存者を見るのみならず大いに能聽軍嗚の生存者の何々でもよい從来の規模を縮少し而後は步兵一番の搜索に充てすとも同時に之に必要を合せて後は步兵一番の搜索に充てならんとして
干葉は今回の大事件に於て此生存者の実験を見るも何となれば此地生存者の実地の搜索をして生存者の死の間にて又之を証せしめん
病院の方は以前より後藤病院長が引受けたがとられだが后 体が現れましたから何でも此辺に相違いないと思い夫参【判読不明】て居ます
生存者の経験
この外三名も(教訓を語るために)加わった。
「生存者の経験は今回の大事件において何を得たかを見るために、搜索大本営の方は以前に搜索を試みたが、その結果は鳴澤哨所以南でごく少数の生存者の実際の経験を見てきた。
また我が第五連隊の生存者を見るのみならず、大いに聞き取りを行った生存者の何でもよい、従来の規模を縮小して後は步兵(最善の兵)一番の搜索に充てるとともに、之に必要を合わせて後は步兵一番の搜索に充てなければならない。」
「今回の大事件において、この生存者の実際の経験を見るのは何故かといえば、この地の生存者の実地の搜索をして、生存者の生死の間にてまたこれを証明させた。」
病院の方は以前より後藤病院長が引き受けたが、体(遺体)が現れましたから何でもこの辺に相違いないと思い【続く】
雪中行軍後隊編 (五十六・五十七)
故 中野水野志宣君
あげれば籬もなく、那もなく而もなく【判読不明】の如く邪気もあける素品高尚にして清澄無垢異に社会の上洒者たる気格ら彼に附けられす氣も自ら備へたを忘れしめたもの
として大人の邊にあるものとして人義を重んじて上に服従し下さしめた其景にさらしめた其行に忠実にして伴々と従事せる人なり
我れに無して信義に厚くして人義を重んじ謂む至に在て 景福に頼へすべさらしむ其の奇蹟の嗚もなかつたのであ
君は実に天性の美質で善良なる家庭に生れ其其分軍人として愛すべき気慨と資格とを具へた元気な青年軍人で
故・中野水野志宣君(追悼文)
あげれば籬(まがき)もなく、那もなく、而もなく【判読不明】の如く、邪気もなく素品(素質)が高尚にして、清澄無垢(清く澄んで穢れのない)、社会の上位者たる気品を彼に附けられず、気も自ら備えたを忘れしめたもの(=自然と気品を体得していた人物)。
大人(おとな)の辺にあるものとして仁義を重んじて上位者に服従し、下位者をよく従わせた。その様にさらされながらも行いには忠実にして、伴々と従事していた人である。
信義に厚くして人義を重んじ、至るにあたって幸福に頼えず(頼れず)にさらされた。その奇蹟も無かったのだ。
君は実に天性の美質で善良なる家庭に生まれ、その分、軍人として愛すべき気概と資格とを備えた元気な青年軍人であった。
雪中行軍後隊編 (五十八・五十九)
故 中野中尉
君は実に天然の美質で善良なる家庭に性格で其来分軍人として其其愛すべき性格で中野中尉は人に愛情と包容のある軍人で
家庭の中心点となる聯隊旗鼓の編成の各地で君の友奥の長所を研磨し人に正直なことを倣ひ軍職に就いて哨所に報告せよと
然るにれ来来聯隊長の従卒となりれ自ら後其の志趣を表し志を発揮して国家に還してほしければ死を遂げせなければ遺志を継ぐ同志兄は遺志として殉国なれば感動せよりの本年徴兵廻避の国民としてはあるべきなりや
家庭教育と軍人の心掛
今回の遭難者中に第八中隊一等卒木村兵術、死亡を発見した時に体に背嚢皮は勿論其他の携帯品は一品も欠れあし誠に武人として完全に武装を保つたままの死体であつた
兄に代りて服役を志願す
故・中野中尉(続き)
中野中尉は人に愛情と包容力のある軍人で、家庭の中心点となる連隊旗鼓(連隊の象徴)の編成の各地で友人・知己の長所を磨き、人に正直なことを倣い、軍職に就いて哨所に報告すべしと言われた。
ついに連隊長の従卒となり、自ら後の志(志趣)を表し、志を発揮して国家に還したいと望んだ。遺志を継ぐ同志の兄は、遺志として殉国なれば感動せよとの本年の徴兵廻避の国民としてはあるべきなりや(=徴兵を避けようとする国民に対する教育的言及)。
家庭教育と軍人の心掛け
「今回の遭難者中に第八中隊一等卒木村兵術、死亡を発見した時に体に背嚢皮は勿論その他の携帯品は一品も欠けていなかった。誠に武人として完全に武装を保ったままの死体であった。」
兄に代わりて服役を志願す
(中野中尉の兄が兄に代わって服役を志願した美談が附記されている)
愛らしき少年
富岡縣教手郡直方より高等小学校一年生の少年金子保てふものであありますが今度山口少佐保と友安旅団長へ(左の通り)
高等小学校一年生金子保と云ふものでありますが今度此の事について私は直方から文字を覚えて廉て私は直方高等小学校一年生金子保です今度山口少佐保て友安旅団長へ左の通り
雪について私は雪を除いて如何なることとてもあちらにはどんなにあらうかと思て搜索に従事されました
吾が國のおのへ少しもおやつをはい心地して居る此の事は中学校で并共仕去す仲よく少なかれさや今度山口少佐の指揮する二百名近くの【以下略】
愛らしき少年の手紙
福岡県(富岡縣)教手郡直方より、高等小学校一年生の少年・金子保と言うものからの手紙が紹介された。山口少佐と友安旅団長に宛てた手紙の内容(要旨):
「私は直方高等小学校一年生の金子保です。今度この事(遭難事件)について私は直方から文字を覚えて参りました。雪について私は雪を除いて如何なることとても、あちら(現地)にはどんなことがあろうかと思って、捜索に従事されました【方々への感謝と応援の言葉】。我が国の方々、少しもお休みはないお気持ちがして居ります。この事は中学校でも共に仕去(やり遂げる)すよう、仲よく少なかれさや今度山口少佐の指揮する二百名近くの【以下略】」
字は拙いながらも純粋な気持ちで書かれたこの手紙は、遭難事件が全国の国民の心を深く動かしていたことを示す一例として本冊子に掲載された。
奥付・書誌情報
不 許 複 製
明治三十五年三月十一日 印刷
明治三十五年三月十三日 発行
発行人 三 澤 好 吉
(仙台市定禅寺通樋丁五番地)
印刷人 齋 藤 善 四 郎
(仙台市東二番丁四番地)
印刷所 弘 文 社
(仙台市大町三丁目十六番地)
発行所 三 澤 書 店
(仙台市大町三丁目十六番地)
売捌
北海道石狩國上川郡旭川二條通七丁目 三澤書店
山形市旅籠町 三澤書店
北海道札幌南三條西二丁目 三澤書店
仙台市大町三丁目十六番地 三澤書店
尚武館 仙台市大町二丁目 三澤書店
発行情報:
・印刷:明治三十五年(1902年)三月十一日
・発行:明治三十五年(1902年)三月十三日
・発行人:三澤好吉(仙台市定禅寺通樋丁五番地)
・印刷人:齋藤善四郎(仙台市東二番丁四番地)
・印刷所:弘文社(仙台市大町三丁目十六番地)
・発行所:三澤書店(仙台市大町三丁目十六番地)
売捌所(販売所):
仙台本店の他、山形市・北海道旭川・北海道札幌の各地で販売された。遭難事件が全国的な関心を集め、広域での需要が見込まれたことを示す。
史料的位置づけ:遭難発生(一月二十三〜二十六日)から約七週間という極めて短期間での刊行は、出版社の迅速な対応と社会的需要の高さを示している。後の公式記録(「第五連隊遭難始末記」等)に先行して刊行された民間速報として、搜索活動初期の状況を知る上で一次資料としての価値が高い。